『旧幕府 3巻6号』(旧幕府雑誌社) 1899.6 より
扨 此自分所持の三百目筒を東役所へ運ひし人足も加番人足にて、俄に貞か留守宅へ、仲間の門人中か参て、器械を取揃て運せ、又た 其跡へ青屋口御多門にある三百目の御筒 是は貞か曽祖父坂本弥太郎と云しか、仲ケ間の同門窪田小市 蒲生三郎右衛門と一同に鋳て納め置きたる流義の筒なれは、此度もこれを出されしこと也 を場処迄持せて遣れといふことになりて、近年(手)にて直に加番衆へ人足唯今入用と達されしか、最早今朝より多分の人足を出し切て、一人も人足なしと被申し。
其時遠藤殿被申しは、先刻近手へ参る途中にて、築違の御高塀の御修復に加番の法被着たる人足を見掛たれば、其人足を引揚て此方へ廻され可然 とありたれば、然らば其通り致へし。併破損方へ出したる人足なれば、誰を遣はして引揚へし とあるを、遠藤殿誰れ彼れと申隙はなし、足下方の内壱人自身行て引揚られよと被申。
然らは、迚其座に居られたる加番壱人、自身に築違へ行て人足を引揚て、其人足にかの三百目の御筒を担せて、御鉄炮奉行は(御)手洗伊右衛門差添て、市中処々貞か行先を尋て持歩行き、東役所へ引取たりと聞て、夫迄荷はせて来たるなり。
左程迄に彼是手数のかゝりて配当(慮)ありし事共知らされは、無益の品を預り置て、又 何時急に持運ひをせんも計られず。其時人足打散りては、実に詮方なしと思ひ、強て申張て即時に持帰らせたる抔は、貞か心にも随分能したりと思ふ事とて、平常ならはケ様のことは此上致兼る事なり。