『旧幕府 3巻6号』(旧幕府雑誌社) 1899.6 より
弥四郎 助蔵とも貞か支配下にて外とは抜群の働あり、誠(殊)に弥四郎は途中にても、貞か側に始終進みて離れす。何時も生死をともに可致と存たるよし。尤さも可有様子に見へたり。
一昨年秋より東組同心の支配役となりて、また配下の向に馴染も薄く、素より不肖の貞にて恩遇徳沢の可及事は毛頭これなく、右様に思込呉たるは実に何より忝ことなり。
小頭田村藤助を始、何れも殊の外悦て、此度は全く貞引立に逢て、何れも功を立たりとて、家内迄も呉々礼を申たり。
左様に存付呉てこそ、何事も貞か手足のことくに遣はるゝ事にて、是迚も中なか貞か愚存計にてはなく、平生の支配下取扱ふも 余程心を付、心配を致して、ケ様の節の為を第一とせしは、貞が其玄祖父平左衛門 高祖父武右衛門支配役中の記録を一覧して、始めて合点の参りたる事なり。
此両先代支配役仕置之処は、毎も死所は一所と云を平生何事にも含て取扱ひありし故、万事信実なる処より出て、支配の者もかん服致し、父のことく子のことくに親み、扨 法令礼節の事は至極厳重にて、今日作法をはつしたる事は聊の事にても厳敷叱て、至極厳格なる事にて、当時之支配役とは格別なる所なり。如何にも下賤なるものに唯受の能申様計に致せは、段々附上りて後には慈父か驕子を育る姿にて、手に余り致方のなき様になるなり。
此所は余程味ひのある事にて、深切なる所なり、恵と威とを失はさる様にせされは成らぬ事と、不及ながら少し合点を致し、両先代の所置を汲て取扱ひしか、果して奉行所にて樹木を伐らせ足代を掛させ抔致して、少しも異儀せず能働き、中には高き石垣の所より一飛びに飛び下りたるものなとありて、至極勇々敷働きたり。 是等にて全先代の蔭にて、京(享)保已前の処は又格別なる能き心得方也。夫に比して当時の支配役は唯同心の願之取次役の様にて、何の威勢もなく又深切もなく、唯役中無異にさへ済めは重畳に といふ勤方にて薄情至極なれば、中なか死所は毎も一所といふ論には少しも心付のなき事也。
此度の貞が寸功を立てたるも、右の両先代の平生支配下へ処置せし所と、天山先考か 年来丹情(精)にて戦功(場)の枢要を示教ありて、大砲小銃の利害得失より勝負相の機脈抔まで垂れ示されたるを以、最初の所より何となく少し見切が付たる故なり。
其見切と云は、彼か大砲には斯すれば勝て而斯すれば負る、此方の小銃はケ様にすれば利なり、ケ様にすれば不利也と、初より其虚実の所を知て目当か付けば、自然危き場に臨みても、働易くありたるは、悉く先代徳沢の余慶と云へし。其上運も能かりしか、此運と云も矢張、先代徳沢の余慶なり。