Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.5.27

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「咬 菜 秘 記」その27

坂本鉉之助

『旧幕府 3巻7号』(旧幕府雑誌社) 1899.7 より


◇禁転載◇

適宜、句読点・改行をいれています。


〔吹田での宮脇志摩一件不始末〕

二十一日夜、三組小頭三人支配役え願出たる事は、貞用談にて岡翁助方に居たる所へ参り、則ち翁助と一所に聞て貞が申所も逸々翁助の側にて申聞たることなり。

是は全く二十日の(守)行の節、又兵衛 佐左衛門の処置を同心とも合点致さず、夫より彼是と申し出し。小頭とも大勢に云立てられて 無拠申出たる訳にて、如何様 其様子を跡(跡)にて段々聞きしに、唯権柄押にて上下和順なく、殊に途中にて 今少しにて御城代の人数へ鉄砲を打掛さする事にてありたる由。是も両人の差図なり。

夫故か銘々の書上げにも其所は何歟分り兼る其(書)上方にて、遠方持参故口薬を改る抔云ふ事は何も書出さずとも済むべきことなるをかたりたるは既に打掛くべき所作を為したると聞ゆ。

左様の卒忽なる差図故、同心共口々に目分の了簡を申し出し彼是となりて、誠(殊)宮脇志摩の切腹の躰にだまされ、其儘打捨置て帰りたるは如何にも不調法千万にて、何故吹田へ参りたるや、一味徒党の者吟味に行きたるなり。

(殊に)宮脇志摩平八郎 実の叔父なることは、両人ともよく承知の事にて、仮令切腹の躰にても得度改めて、手疵重き故、愈(存命)叶ひかたくば直首切て持帰る歟、又手疵軽くば早速医師を呼寄せて療用を加へ、其上召取へて帰る歟、此二ツの外はな無事なるを、既に同心中には縄掛け召捕るへくと云ひたるものも有りたれども其通りに不致よし。

多人数参つて唯一人の切腹の躰を見て驚きおそれたる所作にて、尼ケ崎の手へも又兵衛相談致したれとも、是れも何の了簡もなくて卒に其儘に捨置て帰ることゝなりたり。

守口にて 白井幸右衛門の家内を取計ひたるとは、何故 此様に取計ひ方の相違したることか。

唯切腹を見受て 敵に先を越され、此方の所置が顛倒したる事と察するなり。夫もせめて其夜中にも其家にて死にたらばまだしも宜し、其夜中に発狂して養母を鎗にて突殺し、養母と気か付て鎗を捨て手を合せて拝みたれども養母は即死して、夫より又鎗を提げて駈出で、諸々方々狂ひ廻り、二十二日の暁、庄本村と云ふ所の池の端にて自殺して死したるよし、甚だ不外聞千万なることなり。 二十一日の朝、尼ケ崎又左(右)衛門を以て跡部より遠藤殿へ申越さるゝは、宮脇志摩切腹は詐りにて捕り逃したりと不足を申越されたるよし。是は如何にも尤なる不足にて、一言も申訳のなき事なり。

同心共も此守口行の咄になると実に赤面致すと申し居たり。屹度 功の立つ場所へ行きて所置があしくて面目なく、不外聞なる事故、同心共の申処も至極尤なり。此一條の事により起つて小頭三人願ひ出たる子細と聞ゆるなり。

二十一日より日々町奉行所へ詰る与力の差繰には遠藤殿も御存なく、人の知らぬ点(貞)が一人の心配にて、誰にても遣りさへすれは宜しと申す所の事へは中々参らず。

其節(中)には年輩の中にも気遣ひなる人もあり、さて遣らぬは其人の心底に如何と存する所もあり、彼是麁略のある事にて、何そ事のありたる節、相応に取て廻しの出来ると思ふ人は一向少なく、万一不束成事ありては仲間惣体の名折れと存じ、是には心配 殊の外多く口外へは出されぬ心配にて、誰も我一と存ずる所は至極宜布事なれば、貞が眼鏡にては甚だ気遣成事にて、又屹度変事に応じ、取て廻しの出来ると思ふ人は、其人の自己が了簡にも思ひ当り(思慮)ある故、中々六ケ敷所と思ひて、反つて行くことをいやかり、唯ゆきたがる浮気人は悉く気遣ひに存じたるなり。

去ながら先づ無別條済みて、二十日の吹田行位の不束に済みたるは、貞が内 心には 此上なき事と思ふなり。


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