『旧幕府 3巻7号』(旧幕府雑誌社) 1899.7 より
此度の一件銘々の書出しを以て一帳に取綴り、明細書に認むる折節、是は不心得なる事と存じたる事は逸々其人へ向ひて貞 直に申し咎め、其人の如何にも不調法と心付く迄は理非を申述べたり。
是も何とやら人の非を挙けて咎むる様に思ふ人も可有之(と)存ずれども、貞が内心は左様にては決してなく、此度は不及是非ことなから、ケ様の序に能く心得させ置いて、兼(重)ねてケ様の節に至ていつかどの功も出来る様にと夫のみを思ひて申咎めたる(なり)。
畢竟は 公儀の御為と存ずるゆへ、少し人より怨憎を受ることも貞か素より承知の前にて申述たり。夫にても気の付かぬ心得のなき人もあり。是は実に致方のなきといふものなり。
十九日筋銅御門へ固めに出でたる与力隠居久松権之丞(兵衛)へ東町奉行組与力寺西文左衛門(より)掛合ありて、
此百目用意ありといふも甚だ心得難き事にて、要台は貞方の土蔵へ入て、其儘ありたり。要台なしに長筒持出したりとも何の役にも立ぬ事なり。兎角右様の表餝り一通りにて宜と申心得方、一円合点の行ぬことにて、箇様の了簡にて、まさかの時一命を捨て戦ふことは中々出来ぬ訳なれば、敵の来らば速に迯るゝと云ふ事か眼前知れた事なり。
又石川彦兵衛は百目抱筒の玉三つ持参にて平野町にて一放打払ひ、残り二つの玉にて十九日中百目筒を持歩行たりと云。是は畢竟はたの人を頼みにする心得にて、一己の覚悟は更になく、如何に表向さへ間に合へは宜と云ても余り合点の行ぬ心得にて、現在自分の命限りの場へ出て、玉の二つ位持て行と云は、全く側の人を当にして誰か打て呉るであらふ、誰か勝て呉るであらふと思ふ斗りなり。
如何にしても不覚悟千万なる事と思ひ、是も貞が門人には無ければ余り如何敷と存る故、其事を彦兵衛へも段々申述べた事、以来は些 心得も出来る様にと存て、歳下の事故、猶更厳敷申たれ共矢張同断の様子にて、後に御褒美抔被下るれば、人並手柄の様に心得居て、何共気の毒なる事也。
第一は公儀へも恐入たる事なれども、焼直さねば直らぬと云ふ人物はとんと致方のなきものなり。去る故にや昔の名物(将)が戦場の賞罰は殊の外念を入られたる事なり。