『旧幕府 3巻7号』(旧幕府雑誌社) 1899.7 より
十九日夜東役所より為助同道にて引取掛途中にて貞か申は、
能考へて見られよ、縦令障子一枚の蔭にても、此辺に人の体があろふととほどらひにては覘付にくきものなり。さすれば紙にても楯になるなり。夫も敵方鉄炮に達したるものならば、其楯くるめに打ち能処を覘て打べし。是等は鍛練の打人になくては出来ぬことなり。
夫故最初より貞は紙なりと承知して小楯に取りたるなり。技の鍛練不鍛練にて大に得失のある事なり。
実父天山か狩場にて、大熊の栗の樹に上り、下枝に足を掛、上枝に手を掛て立居たるか、胴は大樹の蔭に七八部隠れて、月の輪の所が少し見へたるを、一町余隔て卅目玉にて打取たるは、栗樹を三四寸掛て胴腹の真中を覘て丁度其所に中り、其熊の腹の中へ栗の木の二寸三寸もある木屑を打込て、胆は悉く砕けたりと云事もあり。是等は玉薬も丈夫にて、此玉ならば栗の樹を掛ても打貫と心得居る故、其(真)中の覘ひ能処を打たるなり。
ケ様の事は達人のする事にて、今日の小筒は全く紙荷の上に見へたるだけの体を覘ひたる故、陣笠の瑞へ中りたり。若し胴中なれば何れ体の内へ中る玉なり。
是等はよく心得居るべきことなり
併しなから、差掛たる場にては、外に計策の分別もなく、鉄砲の流義は荻野流 武衛流入組の同心中を以、俄に備立行伍等為整たり共、貞か下知の手際にて中々参るべくとは思はず。唯自分に人先へ駈出て引連て行くより外なしと無詮方いたしたる事にて、あなかち一己の功を争ふ心底は毛頭なく、ケ様の節に差配の行届歟、備立行伍等 正敷駈引自在なる様に下知の行届くことは容易の事には無之。
司馬穣且(苣)が荘賈を切たる程の軍略ならては行届間敷、亦敵方 若剛敵ならば、此度の所作位にては是又行ぬ事にて、忽ち味方敗北となるべし。此度も貞が若し鉄砲に中りて討死になりたらば忽ち惣敗北となるへし。畢竟は弱敵にて、其上 貞が運も能かりし故、是度の寸功は立てしことなり。
毎も是にて能事とは決してせられぬものなり。