『旧幕府 3巻7号』(旧幕府雑誌社) 1899.7 より
肥(脇)勝太郎 堀へ申述べたるは、人数を分け、立挟みにて可致と云し事、貞跡にて聞之、若輩の者、至極殊勝にはあれとも、是は末た鉄砲の技に練熟なく、利害を弁へぬ故と存、勝太郎へ直に申聞たるは、
貞は跡にて段々考へ、淡路町にて二手に引分、一手は東の方より西へ向き打払ひたらは打取るものも多く、賊の散乱も何れの方へ走りたりと云事迄能知りたるべしとは思へとも、是は兼て余程調練の人数にならては甚たあぶなき者にて、わるく狼狽すると同士打ちも出来ることなれば、貞等が即座の軍略には及ぬ事なり。
去れとも、軍法ならば双方より討取るべき事にて、左すれば必勝利も多く有るべく、大将分に一人能心得たるものあらは随分出来る事なり。又出来さへすれば、夫程に功は屹度ある事なり。
此度の一件、大塩平八郎大砲にて火箭砲銃(烙)を打立る由、最初聞くと貞が内心に、平八郎が兼て学ぶ処の砲術、数年七堂浜にて浜百(演ずる)技前、戦場の実用に適ひ難き事のみなれば、少し勝算を得て安心の気味あり。
乍併、何国の何れの一味の中にありて、又如何成技を為さんも難斗、場所迄は気遣ひなかりしか、場処の躰果して最初の勝算通りなり。此事は他方へ猥りに被申ぬ事なれども、大抵諸方の何流何派と云ふ砲術者の今日専門に出す処、先づは冶平の壮観のみにて戦場要前(用)の技はなく、本多為助 十九日の夜東役所より帰路途中にて京橋組の話出て、
是れは先師の卓見にて戦場要用の砲道枢要を発達する事は、同流の徒 深感服致すべき事なり。
又貞が最初より少し勝算を得たると云は、先人天山か示教にて、兼て砲技術に携る所、何流はケ様の技、何流はケ様の術と申事を平常胸臆に貫(畳)置きて、戦場に臨みたる節は第一の目算に致すべしと、既 伝書の中にも教へあるゆへ、其所へ心付けて、かの流儀ならば大低此の位の技なりと推察せしことなり。
何事も先哲の教導にて愚昧の者も少しは心得の出来る事なれば、今日平素無事の時節に無油断 心掛けされば、火急の場に臨みては俄に場(埒)の明ぬ事なり。