『旧幕府 3巻7号』(旧幕府雑誌社) 1899.7 より
十日の朝、玉造御門土橋に出で東堤を見れば、北より南へ百姓躰のもの夥く 通りて、遠眼には蟻の布引と云ものゝ様に見へ、悉く市中へ入込なり。
別に怪敷かともなけれども、市中の火災は未だ最中焼ありて、又賊徒共人数を集るなど風説も有り、又平八郎兼て百姓共をかたらひ置き、大阪出火ならば近在の百姓共駆付て、市中の乱暴を致すなと種々風説も聞へたり。
既に京橋筋銅御門前に此方より出居たる与力同心の隠居 部屋住等の手にて、 胡乱なるもの両三人も召捕たる趣も聞へ、旁以 何とか気遣成事に存じ、其上玉造市中にても悉く荷物等片付、何時何方へ乱妨があるも難斗と市中のもの総々気遣ひ恐れて、高声に物云ふもの有りても 直に迯出すと云ふ位の躰なれは、此時に際(乗)し放火乱妨を致すことは実に仕易き事なれは、万一玉造市中より出火とあらば、組屋敷妻子の向きも狼狽可致、左すれば 同心中迚も銘々居宅を気遣 御門の警衛も心専一にはなる間敷、其内には、又如何様の狼狽もの出来て不調法なることを致し出さんも難斗と、其段を甚だ気遣ひに存するに、爰は決して油断のならぬ所と存、貞 遠藤殿へ申述るは、
右の手配に致し老若のものを(御)城門に残し、与力二十人同心四十人二手になりて、東は黒門口より南は真田山八丁目辺迄押出し、場所を撰み、夜中警固の心得にて既に手分も調ひ押出すべくと致したる折節、西手の火災追々御城近くなり、風も少し強く追手上屋敷へ火の粉も来る趣に付、此上万一御城内にて出火などありては当御門の処も離れかたく、其上此場所も消防の人数も入る事と先つ見合せ居たれは、遠藤殿より、先づ忍ひに斥候を出し可然御申に付、同心両人つゝ五組、無提灯にて夜中玉造市中外野辺より真田山南辺迄悉く忍びに廻らせ、万一不審の事見請たらは駈帰りて注進次第、早速人数打出すべき支度にてありしか、何事なく済みたり。
是も無事に済みたる前にては不入心配の様にあれとも、万一賊徒人数を集むる歟、又は玉造市中へ放火なと致す事あらは、此方の手配行届き居たるこ事ゆへ、さのみ狼狽は致間敷、不入骨折をいたし、夜通も心配計りせし事にて、此時思ふに昔戦国の時分は大将の軍略にて油断をせぬ所には箇様の無益なる心配りも嘸多くありて、其中十度に一度其手筈の通りに敵方より為したる時は、此方の手筈が行届きて勝利を得たる事あるべし。
其たまに勝利を得たる手筈の事斗り後世にも伝はれ共、又何もなくては無益の手当したる事も数々なるべし。夫を無益なりと云は必ず油断の失を生すべし。