『旧幕府 3巻7号』(旧幕府雑誌社) 1899.7 より
十九日出火と聞て登城より引続き東役所へ参り、夫れより又場所へ出たる手続きの間は、唯だ必死の覚悟斗りにて何事も思慮致す間もなく、先づは夢中同然にて、夫より勝利を得一先つ引取りたる上は、何となく少し心も寛になり、島町に住(固)居たるときは長興寺御焔硝蔵警衛の事、又は堺鉄砲師共所持の鉄砲御締の義なとも自分の事にあつからざる事迄思慮に及ひし。
扨その夜玉造へ引取ては、又それそれの手筈等万事忙敷、二十二十一日抔は中々此儘にて静謐になるべくとは毛頭思はず。何れ今一度は何事か仕出す事と存、其心得のみにて、扨段々胸中もくつろぎ申程も大平の忝さを思ひ知り、此末は如何に成行ベき哉と宅の事など別に心にかゝる事もなく、唯平生門外へ出付ぬ婦女子の類は格別迷惑可致と不便に思ふ迄なり。
中には火災の用心に家財を片付たる仲間もありしが、貞が家の家財は何一つ片付し心得は毛頭なく、唯当用の品は武用の器のみと存、其中にも儀仗の品は入用にも不存、唯だ実用の要器斗にて鉄砲玉薬の類は貞が申述へて御櫓へ運入置きたれば、跡の品の為差、掛念する程のことなく、万一組屋敷まで焼亡の時節に到ては中々容易き(の)事には有間敷、其時になりて南京の鉢新渡の茶碗、何一つ無て済事と存居、二百年以前三州武士抔の平生武備に手厚く、今日衣食住の質素なりし事など思ひ当り、実に此節の了簡ならば誰不戒とも銘々武備の心掛け手厚き事に可有之と、初めて二百年前武夫(士)の了簡心掛けをも悟り、お安と申せし婦人の物語りもの *1 など思出し、如何にも左あるベき事と存たり。
貞も既に二十一日の夜帰宅の節は何の心付きなく、手筒十匁と玉薬早合までも持帰らずとも翌朝迄は御番所に置て宜と心得、外に少々同役と談事ありて同役宅へ立寄り、四ツ時頃帰宅して考みれば、今夜中にも如何様の急変可有も難計、左れば御番所まで馳行間も油断のならぬ事と存、宅に残し置きたる十匁筒 玉薬も込め置き、早合へも三ツ四ツ詰置べしと思ひければ、何と玉一ツ宅に残さゞりし故、深更になり俄かに玉を鋳る事となりぬ。其時妻の云に は、
扨打薬も悉く御番所へ差出し置きたる故、どこぞに少しは取残したるも有べしとて諸方尋ねてもなく、漸く大筒に用ゆる口薬入が箪笥に残りたるを見付出し、其薬を以て三放だけの早合を入置て、夫にて漸く安心して寝たり。
此節の心持は如何にも唯一筋なる事にて、既往の惰弱は今更致方もなく、将来は屹度改、平生の了簡をさらりと入替、二百年前の三州武士に可成と覚悟したりしが、静謐に成て五日立十日立と次第に素の惰夫に戻る様に覚ゆるなり。剛毅果断の勇夫にあらざれば時の風俗には克ちがたきものなり。