『旧幕府 3巻7号』(旧幕府雑誌社) 1899.7 より
此度の一件に付、二十日より諸蔵屋敷へ町奉行所の警衛を可申渡、追々其様子を聞きたるに、どの屋敷にても格別法立たるかともなく、其中鉄 砲小筒の五挺や十挺はありても、皆其儘には用立兼るもあり、且つ玉薬火縄の類の用意整居たるはなく、打薬を市中に買入るべしとありても、前夜に火薬の売買を町奉行所より制止ありて、一粒も売らさりしには、何れも甚だ迷惑したるよし。是は畢竟賊徒の為に取締ありたるか、反て警衛の差支となりしもおかしき事なり。
其中 平戸の留守居は、十九日に一騎駈にて役所に来り、
又 薩州屋敷は殊の外 遅刻になりたるよし。是は屋敷中 銘々我も我もと出たがりたる故、屋敷を明けて惣出になるべく躰なれば、留守居より夫々名指をして、出役申付けたれば、名指に洩たるもの立腹して、是は留守居が依估の差図なり。さらは留守居を打果して出よ、と申事にて屋敷中騒動に及ひ、夫故 殊の外遅参に成たりといふ風説なり。是は一向に合点の行ぬ事にて、一通りは薩摩武士の気象勇敷聞ゆれとも、左様に銘々一己が功を争ふ次第にては、法令は更になし。軍はいつも敗北可致、其上主君への奉公は一向立ぬ事にて、留守居の差図を謹んて受くるこそ真の武勇に可有。
是も浮説にてよいかげんの説を付たる事歟。又は余り遅参の処より申訳に左様申せしこと哉。何分事実とは思はれず。又江戸大御番与力門人の桜井代五郎より書状にて申越せしは、東役所の面々具足着用の風躰甚おかしき由、薩摩屋敷の者より申越たる旨を聞きたりと云越したり。
貞等も東役所并に場所迄も具足を着たる面々を見受けたれ共さのみおかしき風躰とも心付ず。流石は薩摩武士の申口哉、平生着馴ぬものを着たる故、着馴れたる者より見れはおかしき所も見るなるべし。我々の田舎(夫)が麻上下着たるものを見る様に見なしたる事と感心せしか、さるにても薩摩屋敷の者、何かたにて東役所の面々か具足を着致したるを見請し哉、定めて警固に出てたる者か見受けたるなるべしと思ひし。
然る処、川口与力門人の宇津尾兼(魯)助が話にて聞けは、二十一日の夕方、御城代の御差図にて大塩平八郎舟にて迯れんも難斗、船手吟味可致旨にて、夜中俄に致方なく両川口を船楯にて関きり、夜中通船を差留たる所、諸方の関船入津いたしかけ、甚やかましく由(申)て通し呉よと申せ共、何分御手当もの有之に付、夜中は一艘も通し不申、其中薩州の関船は殊の外にやかましく申、
此方より度々入津を催促すれば唯今食事に掛り居る間、程なく罷通る抔、種々の断を申て入津手間取、又是れにても殆んど困り入たる由の話なり。左すれば最初の手強き口上には似ぬ殊の外の恐れ様と見へたれば、蔵屋敷のもの等が具足の着様を笑ひたるも 些合点の行かぬことと存なり。
口先斗は如何様にも自由に人の事も云るゝものなれとも、言行一致の所作に無くては感心はせられぬことなり。