Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.6.4
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「咬 菜 秘 記」その37
坂本鉉之助
『旧幕府 3巻8号』(旧幕府雑誌社) 1899.8
より
◇禁転載◇
適宜、句読点・改行をいれています。
〔淀川出水後の騒動〕
二十日の夜中より廿一日迄大雨にて、其故歟、二十二日淀川出水なり。
玉造土橋固も昨日限りにて止み、二十二日より月番四人つゝ暁六つ時より暮六つ時迄御番所に詰ることにて、二十二日貞と平月番三人大御番所に詰居たる
(処)、未の刻斗、築違の方を加番の家来とみえ、両若党を連たる侍大小を抱て横になつて駈け通る躰なり。又何事かあるかと存する所、遠藤殿へ押の者、同しく追手の方より横になりて駈帰るも直に、月番の与力を御番所へ呼参りたる使の口上殊更にけたゝましく申故、急変ありと直に貞上屋敷へ出つると、玄関の敷台へ畑【人古】(佐)秋之助出て申には出て申には、
唯今淀川を船にて平八郎押寄せたる旨、追手上屋敷 供の者より申来り
と云所へ、又追手より押一人駈帰り、
と云ふ。秋之助も合点参らぬ故、
とて追手へ駈行たり。
貞は先づ大御番所へ引取待居たる所、無程秋之助帰りて申は、全く間違にて東町奉行の用人 武善之助と云ふ者なり 追手へ駈来り、平八郎船にて押掛けたる由を申に付、供頭のもの即座に玉造へ為知たる処、右は全く間違にて、出水にて伏見下船 天満橋にもたれ騒動いたしたるを、風度平八郎の押寄たる故騷動致すと心得、追手へ駈付て注意(進)申たる東奉行の用人、卒忽の間違なりと云ふ。跡にて段々聞けば、三十石乗合船が天満橋の杭へもたれかゝりたるゆえ そう動したるを、東役所より差図して人足抔を出し橋を落さぬ様にと俄かに人々駈出したるを、右の用人 是は平八郎か船にて押寄せたると はや合点をして、直に追手玄関へ駈付、其由を注進申したるよし。
其途中駈る様子を見て、又急変ありと察し、御城代の五軒家敷、又中屋敷よりも悉く人数駈出して御城入せし由なり。
其日大井伝治兵衛の親類久松彦三郎は、到一郎の行衛を得(尋)んと天王寺辺に行て、下寺町を通りし折節 右の時刻にて、何事とは知れず 又騒動ありと、往来の人々が俄に皆早足に走り出したる故、彦三郎も無心元と宅に駈帰りたり。
纔に一人の卒忽よりして、忽ち諸方へ響き渡りたることなり。昔より陣中にて妄言を禁ずる事、尤心得べきことなり。
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