『旧幕府 3巻8号』(旧幕府雑誌社) 1899.8 より
支配下同心の猪狩耕助 本多為助の云には、此度の一件は皆初て出会たる異変故不心得の事も(多く)有たり。置(重ね)て此様の事ありたら、大分心得方も出来てあれは、今一度ありたらは如何と尋けれは、耕助返答に、
最初武功を立たる節、振り返り見たれは、傍輩何も矢玉に中り討死の中にて、此覚兵衛壱人幸に武功を立たり。其時思ふに誠に幸の命助りたること也。再ひケ様の場へ出ぬこそよしと実にこり果て帰りたれは、清正早速褒美有て刀を遣り加増を遣し感状其外度々賞美致たる故、又夫にほたされて度々武功ありて、畢竟清正にたまされて度々武功を立たりと云て、後加藤家浪人して何方へも仕官を断て、京都にて渡世をせし由にて。是等は武士のわたり奉公人と云へきもの哉。
ケ様の了簡にては忠言の志とは云難く、乍去其懲果たる者を恩賛(賞)を与へて、再ひ武功を立さするは大将の器量にて、いかにも清正様のもの計にて、夫を程能つかわれて戦場の大功を立られたるなり。縦令譜代恩顧の臣たり共、臣か君の為に武功を立るは素より其筈也。何も恩賞せすとも宜敷とて捨置君はなきことなれ共、臣の心には恩賞の有無に寄るへき事にはあらす。若 三州の御家臣ならば箇様の口上は決て出さぬ事にて、同し武功を立るも信実の忠より立ると一己の功を計るとの差別有て大切なる所なり。