『旧幕府 3巻8号』(旧幕府雑誌社) 1899.8 より
平八郎徒党を企大筒を以て火矢 炮緑(烙)玉を放し、市中を放火乱妨せし其濫觴は、去年諸国凶作にて米価高直に付き、小民 及難義候間、大坂市中富商の者共身代百貫目有之者へ、壱貫目宛の割合を以て出銀を致させ、夫を以て窮民を救候修(仕)法を出(書)立、平八郎悴格之助を以 断(頭)山城守へ差出候得共、取用無之、再三申立候得共、承引無之に付、平八郎 格之助へ申付、今一度覚悟を極め、強て可申立と見(思)ふなり。
其方にも覚悟いたして強て申立候様申渡し、又候格之助より申立たる処、
又 平八郎学派あしく、夫故組の風儀も宜しからずと山城守申され)
候を承り、殊の外 致立腹、此度の企に及候。右仕法書差出たるは去年十月頃の事のよし風説に候得共、是も更に信用難致事にて、左程窮民を救ふべき志の厚き者か、頭の取用無とて 俄に反抗(覆)して其窮民共を一時に焼燼すへき訳はなし。
又一説に、富商鴻池屋を始、大家の分へ救民の施行の為、多分の金子を借し呉候様 申遣候処、何れも断を申、其中には奉行所へ其由を訴へ出たる家もある故、右等の豪富共迄遺恨を含みて、悉く焼立て、所持之金銀を諸民に乱妨させん為と云ふ説もあれ共、是も信用しかたし。左あらは両町奉行を討取へき謀計抔は致さす共済へき者(こと)にて、最初に組屋敷の仲間中を一番に焼立へき抔は、あなかち富商にのみ遺恨のある事共思はれす。
当二月六日七日の頃に 平八郎所持の書籍を売払て、七百金を以 窮民壱万人づ(へ一朱つゝ)施行せし事も、与力の身分にては余り出来過たる事なりと、其時から得心致さゞりしが、是は果して後の隠謀の時の為に人集をせんと謀りしことにて救民の趣意にはあらさりし。
又 平八郎は、近来陽明学を唱へて高慢なる躰也。
元来天満の組は平常町人計を取扱ふ故、自然 大坂市中に住む程の者は、儒者を初 書家も歌人も、皆尊敬して天満組の意に悖らぬ様にと思ふにより、顛倒たらけの文書ても平仄の合ぬ詩作りても、書を書ても、歌(を)よみても、皆賞美して、面白く能出来たりと(誉むる故、夫が自然と癖になりて我程の者はなしと思ふより)、いつの間にか天狗の仲間入してしらずしらず高慢堺へ踏込て、率(卒)にはかゝる狂妄の処置に及ひしや。
殊に平八郎、持前に短慮なる所ありて、時としては暴怒の処為もあれば、旁 怒に乗してかく妄狂の事を為せし事哉。
併なから一味の人に渡辺良左衛門を始、随分篤実躰なる者も彼是有て、白井幸右衛門抔は、守口宿にては余程の身代なる者、殊に篤実者にて、村中彼が恩沢を蒙りたる者も多くあるへし。
平八郎はさし置、是等の人々は何を以 父母妻子を捨て、此企てに一味せし事やらん。
師弟の間の義理に覊されての事か。其師恩といふも今日人倫の道を教授せられて、忠孝の道を示されたるは忝といふ恩にあれは、君に反し父母を捨る企に至ては、諌争は飽まて為すとも、師弟の好に係て一味する理は有まし。
又国家の為めにする救民の二字に迷されしやと思へは、是も現在市中へ放火する企なれば、救民の所為にあらざることは三歳の小児にても弁別して、更に迷溺すべきよふなし。
さるにても合点の行かぬことなりと思ひし所、我(或)富商が説を篠崎小竹が話にて聞しは、能人情に通して左もあるべしと初めて合点せし事なり。
其説は、平八郎 平常ともに当時の御役人方の是非得失をかたの如く評論すること誰の前にても憚る所なく、況んや門人を集め、聖経賢伝を釈く所にては猶更也。
聖経賢伝の説に依て右の悪口を講釈に用ひ、御老中の誰殿 箇様にあるは此論語の説には一向に悖ることにあらずや。御城代の誰殿かかくあるは、此孟子の説とは雲泥の違なり抔講するを、門人も初の程は耳立て忌諱にふれることを余りなりと思ふものもあれど、度々の事に次第に耳馴て、何とも思はぬ様になり、後には如何にも先生の説は尤至極也と思ふ故、自分は勿論、門人の者もいつか識らず知らず彼の高慢界に陥て、唯 大塩先生の被申事は尤至極とおもひ、平八郎も、固より陽明の良知の説を以て、己が心より思ひ付く程のことは皆良知より出ると思ひ、卒には反逆に至るも知らずして此度の企に一味し、已が一命は申に不申、父母妻子の罪せらるゝに至ても、未だ悟らざるの邪道に陥りしなるべし。
是は現在自分の身の上にも覚のあることなりとて、かの富商が親に(が)かゝりにて部屋住の時、少し茶事を学ばんとて親の目をかすめて内証にて茶器を買しときは、纔に一二金にて茶碗一ツを求て嬉しきことに思ひしが、夫か手に入て暫くすると 又不足に思ひて、此度は五金の茶碗となり、夫より十金の茶碗となり、次第々々に高慢界に入て、卒には幾百金幾千金となりて身代は殆ど滅亡するに至れ共、茶碗一ツを抱て、未だ悟らざると其情同損(様)なりと云し。(此頃小堀氏の所蔵ありし名物とて六地蔵と云茶碗 売物に出しを、雑喉屋某といふ商か三千五百両に買取りて、すぐに某家勢を喪ひし事をいふ也)如何にも左あるべし。
是を以て平八郎が心根を察するに、陳勝 呉広は何人なる。僅に水呑百姓の日雇なり。夫すら鋤鍬もつて事を起して秦の代を覆す矢(手)初をせし。今我陳勝に勝ること万々なれば、此時節を以て事を起さば大坂市民の困窮なるは不及申、近在近郷の者も忽ち走集るべく、其中には樊【口會】もあるべく張良もあるべく、蕭何 曹参(必らず)無にはあらじ。未だ夫のみにあらず。沛公 項梁の如き諸国に於て応ずる者無しといふべからず。其時に至て我智謀張良には劣らず、我武功韓信には遙かに勝るべし。彭越 黥布のか如きは論ずるに足らず。我掌握中の物なれば、夫々器に応じて用ゆへし。事を起して一度仕損じたりとて左のみ患ふべきにもあらず。かの張良は浪人者にて秦の始皇を討たんと思ひ、わずか一人の力士を頼みて鉄槌にて撃損し、其時始皇の猛威を以て天下中草を分けて尋たりしも張良か智謀にて免かれ、剰へ己一人のみならず力士迄も虎口を遁れたり。智慧才覚あれば如何なることも恐るゝに足らず抔思慮しかゝる企に及びしやと思へば、人に恐れて警むべきは此高慢の心にて、なかんずく才量ある人は尚又慎むべき事なり。
小竹右の話に付て貞が小竹へ答へしは、