Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.7.20訂正
2000.6.9
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「咬 菜 秘 記」その43
坂本鉉之助
『旧幕府 3巻8号』(旧幕府雑誌社) 1899.8
より
◇禁転載◇
適宜、句読点・改行をいれています。
〔伊丹の門人 檄文の配布〕
平八郎 近年伊丹の酒蔵家に彼是門人有て、折々招待にて平八郎参りて、滞留して講釈せしが、伊丹の馬奴両人一文不通の者ながら、其講釈と云者を一度は聴て見たいと申故、社中の許して、内証にて次の間襖の蔭にて聴かせければ、至極面白くて難有いと申て、講釈の度毎に襖の蔭へ出て聴居たるを、或時平八郎其由を知りて、
夫は甚殊勝成志なり。左らは馬奴にても此方の弟子に致て遣す間、矢張席中の末座に出て聴け
とて、其後は一間の中にて講釈を聞かるゝことになりて殊の外難有かり、先生さまとて尊敬したり(し)が、二月の十七八日の頃に両人共急に用事あれは来れとて大塩より呼に遣せしが、其内一人のものは此頃少々博奕を致したれは、若哉其事が先生さまに聞へて 呼て叱られることか と内心に疑念を起して、
些不快なれば我は行けぬ程に、そなた一人先ツ行て御用を聞て参れ
と云故、去らはとて 一人大塩へ参り、
某は少々不快にて参り得す、先ツ私一人参りたり。御用は何にや
と申せば平八郎呼入て申には、
とて一朱金を一握りつかみて(遣し、袂を出せとて袂の中へ入れて遣り、又一握り掴みて)是は参らぬ今一人へ遣す程に、持帰りて遣れといふて、又一方の袂を出させて夫へ入て遣りければ、驚入りて難有かり、
平常結構なる御講釈を承りて難有存る上へ、箇様な御恵を請ては重々恐入りて難有、定て某も嘸難有かり可申
と云。平八郎 申は、
いや外に頼度用事もあるから其用事を精出して働けとて、かの檄文を(是は世間へまきちらしたる落文にて世間に見たる人多し。貞は遠藤殿の御見せ候を一覧せし計故、委敷は覚えず。板行にして美の紙四五枚へすりて夫を黄なる木綿の袋にゐれて、其上へ伊勢劒先の御祓を一ツ挟みて天より下さるヽと上書をしてあり。此檄文十九日場処の長持の中にも夥敷ありたり。いまに(だ)此時散らしの思ふ程行屈かざりしことにや)夥敷渡して、
是を段々西の宮より灘目 兵庫の方一村々々の寺或は社の類に人知れぬ様に蒔賦れ、今一人と申合せて随分早く遠方まで行届く様に賦り呉よ。其用事申付る間、夜の用心の為、亦是を遣るとて、長脇差を二腰渡して是指人両人して働て呉れよ
と申せば、其者
是は何より易き御用なり。私共歩行ことは年中商売なれば少しも苦労に不存。夫に又結構な脇差まで頂戴いたして某も嘸悦び可申
とて受合ければ、直に是から帰りかけに大坂外れの村に(々)より伊丹迄の道筋へも夫々配りて帰と申付て遣りぬ。
其者 唯一走りに道筋夫々配りて急ぎて伊丹へ帰り、扨今一人の所へ行て、
先生様御用は米高にて難渋する故、恵て遣るとて金子を夥敷被下たり
と云へは、
左様の事なら我等も行けは能を作病遣ひて行さりしは残念なり
と云。
とて片袂の一朱をふるひ出せは、一人も殊の外に驚きて
といふ。また
とてかの脇差を出て遣れは、猶以驚きて難有かる。
と、
と云て村外れの産神の森の中へ同道して、
扨 御用と云は、是を方々の村々の寺や社へ賦り歩行御用なり
とて彼の檄文を出せは、
夫は中に何か書いてある(か)
と云ふ。
先の一人いろはのいの字も知らぬ(故夫はー向知らぬ)
といふ。
とて中の檄文を読兼るなりに所々読て見て、
いや是はめつたにうかと出来ぬ大事の事なり。仮令先生様の御頼ても是は己は断なり。そなたもめつたな事は出来ぬそ。能く勘弁せい
と云ふ。一人は大に驚きて、
といふ故、今迄配た事は是非に及ね(ぬ)が、是より配ること勘弁せよと云て其儘宅へ帰りし。
一人は殊の外其事を苦労に思ひて居しや、十九日大坂の乱妨の事伊丹へ聞ゆると、此馬士俄に発狂して、種々のことを口走りて伊丹の町中を駈廻り、卒に産神の森へ行きて首縊て死したり。馬奴には似合はぬ正直なる気質あり。
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