『旧幕府 3巻8号』(旧幕府雑誌社) 1899.8 より
今一人 下の辻村の猟師清五郎といふものも、同じ様なる致方にて大塩へ鳥を売て過分の価を貰ひ、又施行金をも貰ひて同十九日に大塩へ駈け付たりしが、大筒を放つを見て大に驚き恐れて、大塩か門前へ押出すと直に其場より逃出し、玉造の岡翁助へ兼て出入したれは、直に岡へ逃来りたりし。其者の話を聞て玉造組にては翁助か一番に大塩乱妨の事を知たる者なり。
扨 翁助 何の心付もなく其者を其儘宅に置て遣ひ、彼も又高直なる米を喰はせてもらへは能き事に思ひて、五日も十日も其儘に翁助かたに居たる。
十日も過てから町奉行より内々遠藤殿(へ)申来て、岡より町奉行所へ差出すことになりし。其時は尼崎まで清五郎を使に遣して、折節翁(助)宅に居ぬ時なれは、若 途にて取逃しては如何とて、又三四人別に人を遣りて尼崎より呼戻し、大に騒動して町奉行所へさし出たり。
夫迄貞は更に知らざりしゆへ、心添もせさりし。箇様のことは少しも等閑にはせられぬ事にて、最初に此方より宜 子細を申述て届たらは猟師が為めにも宜、此方の念も行届く事なり。
然るに最初に等閑にして置たる故、何(彼)の方より疑は(が)かゝりて内沙汰がありてから差出ては、此方も面目なく、猟師か為めには猶更悪く、既に是より以前 二月廿一日の夜、三組同心の小頭三人同道にて支配役え一統申旨を申出たる時、貞か返答に何も納得したりし時は翁助か宅にて翁助同席なりし。
其時跡にて加藤次郎右衛門の支配下の同心小頭高尾勘右衛門といふもの申には、
扨)
今日は大変にて、私主人の家内も堺へ逃侯に付、供を致して参るか、此葛籠は私の荷物なれは何卒御預り被下。何れ一両日の中には又取りに参ると申して預け置候。家内も兼て知たるものなり。何の心付もなく預り置き候処、私 先刻帰宅(仕)其義を承り、此節からの事、殊に郷左衛門は徒党の中とも申風説承り居、何分心ならす。今日にて三日に相成候得共、今に其者も取 に不参。如何可致哉此事を翁助も能承知いたし居ながら目分の事には心付さりしか、清五郎を等閑にさし置てあの方より沙汰か有て、驚きて差出したり。是等も翁助と貞と性質の智慧は何も違ひたることもなく、しかも貞より歳も六ツ上にて席も上席の同役なれとも、貞が少く学文の端をも志す故、先蹤を記憶したる事ありて、此度の筋は至極大事の事なりと思ひし故なり。