『旧幕府 3巻8号』(旧幕府雑誌社) 1899.8 より
その先蹤と云は、
承応元年九月崇源院殿廿七回御忌として増上寺にて万部の読経始り、五日より十五日まで日数十一日の間なり。
同十三日、城半左衛門家来長坂刑部左衛門と云者松平伊豆守殿に至り、戸次(荘)左衛門 林戸右衛門 三宅平六 土岐与左衛門 藤岡又十郎と申浪人徒党を企て、来る十五日御法事終て後、風を見合せ増上寺の風上より火を放ち焼立、老中火を救はん為め 出馬ある処を鉄砲にて打落し、其外徒党の者江戸中を徘徊し、一度に火を放ち天下の変を見るへしと相謀る段 訴人しけれは、早速町奉行石谷将監 神尾備前守手分して戸次 林 三宅 藤岡を生捕にす。土岐与左衛門は出奔せり。
扨 四人を拷問あるに、水野美作守が家来岩(石)橋源左衛門、此度の張本たる由 白状するに依り、源左衛門并弟又七郎共に召捕れ、阿部豊後守家来山本兵部(山本勘助頼経の孫なり)も同類の由 長坂 申上るにより召籠らる。
同十九日、戸次 林 三宅 藤岡の四人、石橋 山本と共に評定所にて吟味あり。
戸次が云。
戸次が云。
縦令は先祖の敵有て当時は一国一郡の主共なり。又は天下を取たる時は仇を報ゆへき為に乱す事なかるへきや。
某が云。
然る時は上下に疑の心を付るより外は術あるまし。
戸次が云ふ。
其術如何。
某答へて、
我勢一二百もあらば、其城下の四面の町家百ケ所にも宿を借、時刻を調し合せ、一度に火を放さは手過ちとは思ふへからず。謀叛人ありて如斯したらんと 人々心置あひて自然と変も出来せん。其時に臨み、又謀を施さば志を得る事あるべし。
戸次 潜に語て曰、
我々此度徒党を企、増上寺の風上二三ケ所より火を放し、彼等(の寺)の財宝並万部の布施物を奪とりて、老中火を防くへき為出馬あらば、愛宕下四五ケ所に埋伏し鉄砲にて打落し、天下の変を見るべし と相談し、徒党の人数如斯と巻物を披くに、誰とは不知、二三百人の姓名を記し、某にも連判せよと望む。
某 大に驚き、
是は不覚至極なり。定て我心を引見る為なるべけれど、仮初にもかゝる事は後難も恐れあり。君(若)又実の企てならば、今名(各)の方寸にてかゝる静謐の天下を乱さんとは、す弥々長をくらへ石を抱て淵に入が如し。無益のたほむれ無用なり
と申す。
其時四人 辞を揃へ、
人に大事を語らせて同心なきは奇怪なり。殊更天下を乱すベき謀を云出たるは貴殿なり。然る上、今度の徒党の張本人も貴殿に紛れなければ、急ぎ判形致さるべし
と厳責す。時に某申は、
然る上は不及是非に。兎も角もいたすべし。判形の事は、得度連判の名前を見届け調印致すべし。唯今は主人美作守用事有の由、先刻申来りたれば出仕致さて相叶ず、追て持参致さるべし。迚 巻物を返へし罷出たり。其後三度迄来りたれ共、留守と称して対面致さず
同廿一日、罪科究まり、戸次 林 三宅 藤岡 石橋 浅草に於て磔に掛られ従類又同所にて斬首さ(せ)らる。土岐は一端出奔せしと雖、身の置所なき儘、増上寺切通しに(て)去十七日自害せしを、塩潰にし置きて一所に磔に掛らる。山本兵部は公義にては宥免ありて、主人豊後守殿に渡されければ、豊後守殿 後 下屋敷にて切腹申付らる。此事後代覆轍の戒なるべし。
貞 此條を評して云。
又 此中なる石橋が軍学も詐謀譎略を以 宗とし、以律の戒を知らざれば、其人となりも論ずるに足らず。山本が人となりと雖、又心正しき人とは思はれず、平常交る朋友に箇様の隠謀を以て荷担せよと云掛らるゝは、何れ此方に常に(々)正しからぬ言行のある故なり。箇様の事は、心正しき人に向ひては、決して謂出されぬ筈なり。故に、武士は、平常戯言にも、不孝不忠の正しからぬ事は一言半句も云ふまじきことなり。