Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.7.20訂正
2000.6.10

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「咬 菜 秘 記」その46

坂本鉉之助

『旧幕府 3巻8号』(旧幕府雑誌社) 1899.8 より


◇禁転載◇

適宜、句読点・改行をいれています。


〔先蹤 承応元年〕

その先蹤と云は、

承応元年九月崇源院殿廿七回御忌として増上寺にて万部の読経始り、五日より十五日まで日数十一日の間なり。

同十三日、城半左衛門家来長坂刑部左衛門と云者松平伊豆守殿に至り、戸次(荘)左衛門 林戸右衛門 三宅平六 土岐与左衛門 藤岡又十郎と申浪人徒党を企て、来る十五日御法事終て後、風を見合せ増上寺の風上より火を放ち焼立、老中火を救はん為め 出馬ある処を鉄砲にて打落し、其外徒党の者江戸中を徘徊し、一度に火を放ち天下の変を見るへしと相謀る段 訴人しけれは、早速町奉行石谷将監 神尾備前守手分して戸次 林 三宅 藤岡を生捕にす。土岐与左衛門は出奔せり。

扨 四人を拷問あるに、水野美作守が家来(石)橋源左衛門、此度の張本たる由 白状するに依り、源左衛門并弟又七郎共に召捕れ、阿部豊後守家来山本兵部(山本勘助頼経の孫なり)も同類の由 長坂 申上るにより召籠らる。

同十九日、戸次 林 三宅 藤岡の四人、石橋 山本と共に評定所にて吟味あり。

戸次が云。

石橋か云。 と申。戸次が云。 申。 石橋 更に承引せず、陳防に及ひけれ共、戸次猶も争ひ止ず。阿部豊後守殿の云。 石橋 則屈服し詞を出さず。
山本兵部に尋ねらる。山本が云。 と云。戸次が云ふ。 と云ふ。其時豊後守殿 山本に向ひ、 山本 答て、 と云。豊後守殿重ねて、 と叱らせらる。山本首を垂て雌伏せり。

同廿一日、罪科究まり、戸次 林 三宅 藤岡 石橋 浅草に於て磔に掛られ従類又同所にて斬首さ(せ)らる。土岐は一端出奔せしと雖、身の置所なき儘、増上寺切通しに(て)去十七日自害せしを、塩潰にし置きて一所に磔に掛らる。山本兵部は公義にては宥免ありて、主人豊後守殿に渡されければ、豊後守殿 後 下屋敷にて切腹申付らる。此事後代覆轍の戒なるべし。

貞 此條を評して云。


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