『旧幕府 3巻8号』(旧幕府雑誌社) 1899.8 より
扨 貞が此先蹤を覚えたるより、余り其事に粘着して、反りて馬鹿念と云ふことをして人に迷惑を掛ケ、跡にて気の毒なる事と、又、箇様の訳を知らぬ故、免すべき科を免れずして遠島になりし玉造同心本橋岩次部の事を、心得の為に此序に(左に)記し置なり。
大塩乱妨後、其年の七月三日の事なり。
江戸堀の篠崎小竹が借家に住居せし山田大助といふ手習師匠をして 少々兵学抔教へ居しものありて、是が常々大塩の事を嘲り笑て、軍学を知らぬ故拙き事をしたりと誹り居しが、是も矢張驕慢増長せしにや、能勢辺の百姓を語らひ一揆を起させたり。
此大助が姉妹の子にて、大助が為めには甥なる者、玉造同心本橋某か養子になりて、岩次部といふて、既に乱妨の時も諸所へ出勤せしものなり。
能勢にて一揆の事は一向埒もなき事にて、町奉行の手と御代官の手にて早速 取鎮めて、少々集りし百姓共も悉く散乱して、大助は山の中にて鉄砲にて自滅せし由なり。
扨 七月五日夜、貞 宿番の折節、夜中に遠藤殿より云(召)れて御側へ出し処、
夫より村へ参り候所(無理に近在まで連行候)連中(途中)抔は、前後を挟み迯し不申。 夫より村へ参候処、百姓共二十人計 相集居、其所にて道場寺をかり、早鐘を撞せ、人集めを致し候。私は此程中より少々瘧にて相煩ひ、其節も瘧相発候に付、勝手にて打臥、養生致し居候中に、叔父 百姓をば連れ、近村へ参り候様子に付、其透間を考へ窃に迯げ帰り、池田迄は若 追人(手)にてもかゝり候哉と山中の道も無之処え迯帰、三日の昼八ツ時過帰宅仕、彼是心配計り仕居候
然しながら叔父大助へ既に諌言をして用ひず、事を起せし上は仮令岩次部訴出す共其罪免るべき様もなく、殊に自分は不得心にて其場を迯げ帰りたるにそ幸、直に訴たらば養家を潰すこともなく、養父への孝道も立つべきものを、若輩者の不得心にて、免るベき罪を免れぬことになしたるは不便の事なりと思ひしか、
奉行所の吟味の節、岩次郎が白状の口を跡にて聞けば、此岩次部自分にも少し悪念ありて、何分同心を勤めて居るを迷惑に思ひ、外へ士官致度と常々叔父大助へ其事を頼み置しが、此時大助が申には、去る方によき士官の口あり。鑓をも持する位の口なれば、先づ一応某と同道して参て、先にて得と相談を遂ぐべしとて誑れ、能勢へ連れ行し事の由。左なければ京と能勢との道筋も違ひたることにて、貞が訊ひしときは、叔父が無拠 道よりを致して薬を調て行と申故、其方え同道したり と申せしが、
実は箇様の悪念ありし故、迯帰ても其事実を養父へも話されぬは、玉造同心を勤めながら夫がいやになりて、外に仕官の相談を致さんと思ふ自分の胸中に暗きことありし故なるべし。
岩次部は、七月六日に町奉行へ引渡、即日一通り吟味にて、本橋岩次部不念之義有之。申口も〆り不申。一揆一味とも不相聞候得共、依之 揚屋入被仰付候段、召連候支配岡翁助へ被達候。