Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.7.9訂正
2000.5.30

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「咬 菜 秘 記」その50

坂本鉉之助

『旧幕府 3巻8号』(旧幕府雑誌社) 1899.8 より


◇禁転載◇

適宜、句読点・改行をいれています。


〔大井到一郎 入塾顛末〕

大井到一郎(前名岩太郎)事は、元来貞が強て申勧め、大塩へ寄宿に遣したるなり。しかも貞が紹介して遣はしたる其訳は、一昨年、久保彦四郎主計へ手疵負せて迷(逆)罪を犯したる夜、早速隣家の大井伝治兵衛方へ急ぎ参り呉よと久保より人を遣りたるに、門に錠を卸して急に明けざりし由。

跡にて伝治兵衛が云には、悴大井到一郎毎度教訓を致しても、兎角用ひず夜行等致す故間、(厳敷禁足を申付置きたるに、忍びて夜行を致したる故)、警めの為 門え錠を卸て鍵を手元へ取置、帰宅しても内へ入れざる積に家来へ(も)申付置きたる折節、久保の騒動にて呼に参りたる使の者、頻に門を叩くを悴大井到一郎なりと思ひ態と明けさりし。

暫して久保よりの使といふ事漸分りて、案外隣家の騒動に遅参をしたりと語る。

尤是迄 毎毎大井到一郎不行状なる事は、貞が耳に入たる故、親伝治兵衛とは取締役の同役なれば一入無捨置、幾度も伝治兵衛へ心添を為たれ共、親父の聞請あしく、唯仲間中の者哉到一郎をあしさまに申為して貞が耳へ入るゝ哉と疑念にてもある哉。唯風説の不行状の次第をせんさく計して、其申訳計りにかゝり居る様に(子)なれは、さりとは気毒に思ふ故、此上は外に致方もある間敷、厳格なる師匠へ頼て学文を致さる外は有間敷、仲間中よりも大井到一郎不行状の次第を彼是といふ様子にて、別て親父の役柄故、猶又申廉も甚敷、迚も此儘にては大井家相続も心元なく、伝治兵衛か了簡にては外に兄弟も沢山あるが、何時にても廃嫡致して次男惣領にすると口には云居ても、強て教克(訓)を加へて取直すへき躰に見へず。

夫故貞か伝治兵衛へ申には、

と勧めけれは、伝治兵衛も納得して、去は貞に と云故、人一人を助る事と思ひ、大塩へ行て右の次第を語り、厳敷教戒給り度と頼みたれ共、一応にては承引なく、 と云故、又到一(郎)と外に仲間の二男米倉倬次郎と同道して大塩へ行て対面させ、両人を頼しが、其時漸承引して預り呉るゝ事になりて、大塩か塾に入たり。

其後或日抔に親父か機嫌伺とて大井到一郎帰宅の節は、平八郎申付て、坂本は恩人の事なれは必安否を聴けとあるよしにて、貞方へ立寄、其時貞に逢ては是迄と違ひ、甚丁寧にて至極様子も能うなり、応対抔もいんぎんに出来る故、流石は大塩の厳教にして早速に功能も見へる事と心の中に喜敷思ひたり。

彼是と半年計りの間は必貞方へも立寄たれ共、其後は絶て立寄りもせず。去年の正月大井へ帰宅して居る様子なれ共貞方へは参らず。

為に風説にて聞は、寄宿料も多分入用斯る故、此に親父の了簡にも倦みたるや、先は其儘に取戻し置き様子に聞ゆれ共、伝治兵衛より貞へは何とも話もなし。

然る処、二月五日初午の夜、大井到一郎、懇友なる近町の門徒僧と同道にて諸所にて酒を呑み、夜分天満の門徒寺へ参る途中、天満橋北詰辺にて往来の者へ鐺り咎をして、其相手を大井到一郎切ると云、相手の町人は迯出を、大井到一郎自刃を以て追駈る故、同道の徒僧 年輩の者にて、夫を押止むる拍子に、過て右の同道僧へ自刃の疵を付たり。

其事七日の夜、親父伝治兵衛か耳に入と 驚き狼狽て、外へは何共言はず其儘直に大塩の塾へ寄宿に送り遣りて、大塩へも何の子細も告さりし。

貞は右の次第を漸く八日の夜、仲間中の風説にて初て聴て思ふに、最早大塩へ遣りて殆んど一ケ年寄宿して、屹度学文の功も見へ、右様の所作抔は決て有間敷筈なるを、纔か三四十日帰宅すれは、直に既往の行跡に戻りて悪行をすると云、人物にては此上迚も心元なく、実に療治の匕を投たる事なれは、此上は親父存念次第に任せ置へき。

必竟は親の進まぬ学文を貞が勧て、不入親父に物入を(掛)させ抔して、此儘差置ては、往々貞が罪になるへく、此後は如何様共親父の存念次第、貞か勧めの事は此度限りに断る可と存し、先つ大塩へも一応其由内々可申遣と、少々恨み口上を以て手紙を遣りし。

其文に

右返翰 斯返書ありて、五日夜の次第を子細に聞度旨申来、再ひ筆執りて手紙を書きかけたれ共、迚も手紙にては埒明ぬと存る故、直に大塩へ行て五日夜の次第を風説通に語りし処、平八郎此程中遠方え他行にて暫く留守の由、其間の事故一向其様子を不存、漸く三四日以前帰宅の由なり。

扨此後の処は伝治兵衛か存念次第にて、貞は此度限り相断、学文を致さする共 止めさする共、親父迄談合給り候様にと申して帰りしか、此時平八郎へ逢たるか面会の限りとなりし事なり。 夫より伝治兵衛大塩より呼に遣りて、右の次第を掛合たる由にて、伝治兵衛は、何分今両三年塾に置て教訓給はる様、直に大塩へ頼たる由にて、貞方えも来りて此上乍ら何分頼むよし、此度の一件を早速申さるゝ(ゞる)は甚不行届不念なり抔断りありて、是迄通り頼む由を呉々申せ共、貞は再三断りて、此上は了顕次第に任さるべしと云て別れぬ。

其一両日過ると遠藤殿耳に入て貞を呼出され、

貞は其事を一向存せさるやとの尋故、 と答申せば、 とあれは、其時貞か申勧めて昨年春より大塩平八郎方へ入学致させ、寄宿に遣たる初よりの次第を申、又此度の一件に付て等閑に捨置かたく存る所(故)大塩へ手紙を遣し、其後自分に参りて大井到一郎学文以来之処、致すとも止るとも、親伝治兵衛了簡次第、貞は最早了簡に不能と申切て断り頓着不致段をも申述、且町奉行より万一此度の一條申来り候はゝ、兼々少々不行状の者故、大塩平八郎方へ学文寄宿に遣し置て、此度の一條は則 一(其)組屋敷大塩塾中にあつての事故、此方は一向不知とありても可然哉抔、所存をも申述たれば、 とありて、貞にも矢張心添を致し遣すへき旨に御申ありたれ共、貞は何分見限り果たる事にて、其上最早(初)強て勧めたる訳なれば(此度限にて断りて、伝治兵衛了簡次第に任せ置度旨申述たり。)其後追々聞しに平八郎より厚く心入ありて寄宿料をも格別に減して、伝治兵衛方にては宅に置くより入費少くなりたり迚、親父も殊の外悦び居る由なり。


管理人註
大井到一郎は、大井正一郎として「人相書」や『大塩平八郎一件書留』などにでています。


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