『旧幕府 3巻8号』(旧幕府雑誌社) 1899.8 より
大井到一郎(前名岩太郎)事は、元来貞が強て申勧め、大塩へ寄宿に遣したるなり。しかも貞が紹介して遣はしたる其訳は、一昨年、久保彦四郎父主計へ手疵負せて迷(逆)罪を犯したる夜、早速隣家の大井伝治兵衛方へ急ぎ参り呉よと久保より人を遣りたるに、門に錠を卸して急に明けざりし由。
跡にて伝治兵衛が云には、悴大井到一郎毎度教訓を致しても、兎角用ひず夜行等致す故間、(厳敷禁足を申付置きたるに、忍びて夜行を致したる故)、警めの為 門え錠を卸て鍵を手元へ取置、帰宅しても内へ入れざる積に家来へ(も)申付置きたる折節、久保の騒動にて呼に参りたる使の者、頻に門を叩くを悴大井到一郎なりと思ひ態と明けさりし。
暫して久保よりの使といふ事漸分りて、案外隣家の騒動に遅参をしたりと語る。
尤是迄 毎毎大井到一郎不行状なる事は、貞が耳に入たる故、親伝治兵衛とは取締役の同役なれば一入無捨置、幾度も伝治兵衛へ心添を為たれ共、親父の聞請あしく、唯仲間中の者哉到一郎をあしさまに申為して貞が耳へ入るゝ哉と疑念にてもある哉。唯風説の不行状の次第をせんさく計して、其申訳計りにかゝり居る様に(子)なれは、さりとは気毒に思ふ故、此上は外に致方もある間敷、厳格なる師匠へ頼て学文を致さる外は有間敷、仲間中よりも大井到一郎不行状の次第を彼是といふ様子にて、別て親父の役柄故、猶又申廉も甚敷、迚も此儘にては大井家相続も心元なく、伝治兵衛か了簡にては外に兄弟も沢山あるが、何時にても廃嫡致して次男惣領にすると口には云居ても、強て教克(訓)を加へて取直すへき躰に見へず。
夫故貞か伝治兵衛へ申には、
其後或日抔に親父か機嫌伺とて大井到一郎帰宅の節は、平八郎申付て、坂本は恩人の事なれは必安否を聴けとあるよしにて、貞方へ立寄、其時貞に逢ては是迄と違ひ、甚丁寧にて至極様子も能うなり、応対抔もいんぎんに出来る故、流石は大塩の厳教にして早速に功能も見へる事と心の中に喜敷思ひたり。
彼是と半年計りの間は必貞方へも立寄たれ共、其後は絶て立寄りもせず。去年の正月大井へ帰宅して居る様子なれ共貞方へは参らず。
為に風説にて聞は、寄宿料も多分入用斯る故、此に親父の了簡にも倦みたるや、先は其儘に取戻し置き様子に聞ゆれ共、伝治兵衛より貞へは何とも話もなし。
然る処、二月五日初午の夜、大井到一郎、懇友なる近町の門徒僧と同道にて諸所にて酒を呑み、夜分天満の門徒寺へ参る途中、天満橋北詰辺にて往来の者へ鐺り咎をして、其相手を大井到一郎切ると云、相手の町人は迯出を、大井到一郎自刃を以て追駈る故、同道の徒僧 年輩の者にて、夫を押止むる拍子に、過て右の同道僧へ自刃の疵を付たり。
其事七日の夜、親父伝治兵衛か耳に入と 驚き狼狽て、外へは何共言はず其儘直に大塩の塾へ寄宿に送り遣りて、大塩へも何の子細も告さりし。
貞は右の次第を漸く八日の夜、仲間中の風説にて初て聴て思ふに、最早大塩へ遣りて殆んど一ケ年寄宿して、屹度学文の功も見へ、右様の所作抔は決て有間敷筈なるを、纔か三四十日帰宅すれは、直に既往の行跡に戻りて悪行をすると云、人物にては此上迚も心元なく、実に療治の匕を投たる事なれは、此上は親父存念次第に任せ置へき。
必竟は親の進まぬ学文を貞が勧て、不入親父に物入を(掛)させ抔して、此儘差置ては、往々貞が罪になるへく、此後は如何様共親父の存念次第、貞か勧めの事は此度限りに断る可と存し、先つ大塩へも一応其由内々可申遣と、少々恨み口上を以て手紙を遣りし。
其文に
前に申上候通、伝治兵衛事も強て文学を好み申候者に而も無之、全小子 傍より強て申勧候故、無是非相願置候姿に付、此上 岩太郎所行革正無之候ては、其罪 偏小子に帰し申候姿にて、何共心痛の至奉存候。
当組の義は御存知の通、古来より文学に志し候者絶て無之、武技一偏の弊風にて、動もすれは文学を致候者は誹謗仕候ゆへ、小子抔 実に手を掩候様に奉存候事にて、既に倬次郎抔は御蔭を以、以前の様子とは直実の容躰に相成、誠忝奉存候事に御座候。
五日夜の次第は、御方角にての儀に付、御承知も有之候間、御処置御座候はヽ、小子 安心仕候得共、万一御存知無御座候儀に候はヽ、此上の所も如何可有之哉は(と)心痛仕候。
此度の義は何とか内済に相成候様子に承り申候間、小子 強て外より評候筋にては毛頭無之、何卒此上の処、当人心底 格別に相革り申候儀に候て、初発の志願に立戻り、大慶の至りに候へ共、厳師而前計の謹にて、此末共敬謹の状無之候而は、一ツは師名の涜れにも可相成、且は小子 強勧の詮も無御座候に付、乍内密 此段申上候、小子より申上候儀は御内密にて可然御勘考奉願候。
以上
大 塩 後 素
拝読仕候。如仰 春和相成候処、弥御佳令被成御起居奉賀候。然は大井岩太の義に付、被仰下候趣承知仕候。
当五日方角え(にて)の儀は何等の事哉一向未相弁候間、今一応仔細に御申越可被下、其上にて御答可申上候。
元来 正月中帰宅引続の儀に付、伝治兵衛殿え(より)は沙汰無之、岩太より塾生へ直に申越候間、右書状文面怪敷被存候に付、今以塾生手元に留差置候。
当七日帰塾に付 相咎候処、伝治兵衛(殿)差図にて認候由に候へ共、怪敷存候儀も有之。其上帰塾刻限の儀も伝治兵衛殿より被申越儀候無之、先其儘に差置候処、今般の御書面にて少々符合致候儀も有之。
一躰長く在宿は如何と奉存候折節にも候間、伝治兵衛殿 心底御聞取道を被嫌候事に候はゝ、不侫より相勧候儀に無之、御頼入の事に候間決心の御可申上候。且密に御尋の儀に付、いまに(だ)岩太えは糺し不申候間、前書五日の儀を早う(々)御申越可被下候様奉待(願)候。先夫迄は岩太えは不申聞候。
以上
二月十三日
扨此後の処は伝治兵衛か存念次第にて、貞は此度限り相断、学文を致さする共 止めさする共、親父迄談合給り候様にと申して帰りしか、此時平八郎へ逢たるか面会の限りとなりし事なり。 夫より伝治兵衛を大塩より呼に遣りて、右の次第を掛合たる由にて、伝治兵衛は、何分今両三年塾に置て教訓給はる様、直に大塩へ頼たる由にて、貞方えも来りて此上乍ら何分頼むよし、此度の一件を早速申さるゝ(ゞる)は甚不行届不念なり抔断りありて、是迄通り頼む由を呉々申せ共、貞は再三断りて、此上は了顕次第に任さるべしと云て別れぬ。
其一両日過ると遠藤殿耳に入て貞を呼出され、
管理人註
大井到一郎は、大井正一郎として「人相書」や『大塩平八郎一件書留』などにでています。