『旧幕府 2巻第12号 』(冨山房雑誌部) 1898.12 より
奉行所の庭にありて唯差図計りして、さのみ奔走もせぬに、何となく口中乾燥して、 湯水の類にて口を濡さゝれは、ものも言にくき様に覚て、其時 此梅肉の事を思出し て、米粒程つゝ口へ入て 大に助りし故、人にも振廻し。
是は全く憶したる故、此様にある事かと思ひしか、我心を我とふり顧れは、随分決定 して命一つ捨る丈ケの所は、覚悟の上なりしか、是は かの量の狭き所より心か迫りて かくある事にや。
此外 腹は空腹にても、握り飯一ツ喰ふ事は出来す、毎に握飯は半分位也。
扨、万端の差図より、其外 人々と応対杯も貞か専一とせし故歟、物事を忘却したる事 も貞か第一也。
跡部か出馬となりて、場所へ行事になりたる時、貞か心配は、此火災にて、市中の者か狼狽廻る中え鉄砲を打ことなれば、若 過て市中の者を打倒しては不外聞は勿論、 公義へ対しても済ぬことなりと思ひ、拾匁筒の早合に込たる打薬等減したるは、自分にも余程自慢なる心付なり。 是は十匁玉関の薬を最初に詰置たり。関の薬にては、甲冑武者二人を打貫く力あれは、賊一人を打貫ても、未た玉に余勢ありて、とこ迄も飛ふゆく、其先にて若し覘ひもせぬ市中のものに中りたらは、如何なりと思ひて、当の敵一人を打貫けは、其余はいらぬものと心付て、打薬を半分に減したり。
扨、跡部の前へ参て貞か申は、
又
此纏持の直に後ろへ貞か参候て、其次へ 同心を二行に立て行しか、纏持か折々立留る 後ろより、貞か
扨、此道筋抔も一向に覚へす。
賊徒と戦しも 何町にもありしや、西を向てやら、北を向てやら、夫さヘ ろくに覚なく、畢竟申さは 夢中同前といふものなり。
同心中は 反て其辺のことはよく覚居て、跡にて段々詮議すれは、
先第一 鉄砲の音は自分の打たるか耳に入たる計、其余の音は一ツも耳に入らず。
剩へ淡路丁にて陣笠を為打ても夫も知らす。
四辻へ駈出て追々跡より同心中駈付、
又、場所の町も廿二、三日頃、遠藤殿御側へ夜分出たりし時、
是等は皆 量の狭き故なるへし、と自ら恥ること也。
場所道筋の所も 貞斗覚ぬにも無之。
為助・熊次郎を始め何も聢と覚無之、最初打寄て相語り候節、為助 申は、
為助は 賊徒の方より木砲を一放打出たる音を聞て、此方より打たると申、貞は火 災中火消の類もあるへけれは、籏や鎗位を目当に急度賊と定難くと思ひ、辻に立て見 定て居る内に、山崎政(弥)四郎か
玉込して、又打たんと先を見れは、賊は一人も居す。
夫より中程過迄 走り行て見れは、先に賊卒体の者一人打倒してあれとも、夫も荷担位の者にて両刀もせす。若哉 市中の者抔にては無き哉と思へは、甚心快からす。其上 四辻へ駆出んことは賊の様子も更に知れされは、うかとは出られす。
貞は夫は一人も目に当らす。
何やら皆云所か少しづヽ違へとも、先つ人々の覚たる儘に最初は平野町、二度目は囚人の口書に任せて堺筋と書出して、三月七日に 遠藤殿 再応被尋、
為助と熊次郎同道にて思案橋を渡る時は、貞や同心の後影も見へぬ程跡へ後れ て、貞か思案橋の西詰を突当て北へ曲りたるか、南へ曲たるか、何れならんと考へて、先つ南へ曲りて瓦町へ出て、漸 貞か後影を見付たり と熊二郎の話なり。 ケ様の事を聞てから熟々考みれは、貞か最初浜側へ出んとて、黒烟りになりて出ることならず、無拠取て返す時、古市丈五郎が袖引張て留たりしを、無理に引放して参り、爰に取て返しては丈五郎に面目なしと思ひしことあり。
夫より松屋町を南へ走る時は、いつの間にやら跡部のあとになりて、先へ跡部の行かれしを跡より追抜たりしか、其時跡部の胴勢、貞を見て皆道の片脇へ寄りて、貞を先へ通し呉たり。
其時も何故跡部のあとへ後れたりとも心付ぬ程の事にて、夢中に其所を走抜返りたる をかすかに覚へたり。
夫より思案橋迄は直の事なるに、跡から追抜て先へ行く貞や同心の後影を見失ふ位に又為助熊二郎は爰にて後れたるは不思議な程の事也。