Я[大塩の乱 資料館]Я
2016.12.4

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「大塩の乱関係論文集」目次


『日本史蹟文庫 徳川幕政』(抄)
その3

妹尾薇谷

岡田文祥堂・山本文友堂 1913 所収

◇禁転載◇

二二 典仁親王に太上天皇の尊号を奉らんとし松平定信之を反対す=家斉将軍の在職は徳川
 十五代の将軍中最も久し=文政以後幕綱弛頽急転直下=大塩の乱=家慶将軍多く新令を発
 す=慶喜卿大政を奉還(3)
管理人註
  

                              ほか  大塩平八郎後素は仍つてこれ等の徒を率ひ、桐に引き両の旗一本と外に        しる 天照皇大神宮と書した旗と南無妙法蓮華経と書いた旗と各一本づゝを押し 立て、まづ天満の自宅に火を放ち、死を決し、更に道傍の博愛慈悲の心な                               がうそ き富家に火を放ちつゝ淡路町より進んで城に迫まり、城代に向つて嗷訴に                   いでたち 及ばんとしたが、この時に於ける後素の扮装は、鍬形の兜を戴き、黒の陣 羽織を着、如何にも勇壮に見えた、これより先き同志の中に変心しこれを 町奉行に訴へ出で居れるものあり、後素の城下に至らざるに、却つて城代             むか 土井大炊頭利位兵を発して邀へて寄せ至つた。  平八郎後素の同志等はこれを見たれば、烈火の如く怒り居れるもの!、                 たちま 城兵に対して醜詆嘲罵を極めながら乍ち衝突するに至つたが、暫らく戦闘 をなしたる後ち、運悪しく後素方がうち破られた、即ち後素の同志二十余                        のが 名城兵のために捕虜となつたが、大塩平八郎後素は遁れて靱油掛町の紺屋 職三好屋五郎兵衛と云ふ者の隠居所に潜匿して再挙の機を待ち居たるに発 覚して、遂に城兵のために取り囲まれた、乃ち平八郎後素は到底その再挙               まぬ         みち の見込みなく、亦我が身の遁れ免かるゝの途なきを知り、火を放つて自殺 したときは、天保八年丁酉の歳新緑梢を粧ふ四月三日のことにして、実に 大塩平八郎が同志と共に城に迫まり嗷訴に及ばんと欲し衝突し戦ひ敗れた のち 後四十四日目の日であつた、世にこれを大塩の乱と云つて居るが、このと き大阪市中の家屋これがため兵火に罹つて焼失したるもの天満は残りなく、 船場、今橋を越へ、東西谷町より中橋通を東堀まで道修町残らず、平野町、 淡路町、瓦町、備後町、安土町等にして戸数一万八千余戸であつたとのこ とである。   〔後略〕

幸田成友
『大塩平八郎』
その130







嗷訴
強訴














四月三日
大塩父子の自殺
は3月27日

幸田成友
『大塩平八郎』
その159









大塩焼け 被害一覧
 


『日本史蹟文庫 徳川幕政』(抄)その2

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