Я[大塩の乱 資料館]Я
2017.3.1

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「大塩の乱関係論文集」目次


「佐藤一斎と大塩中斎」(抄)

社会教育研究所編・刊

『日本教育の発展 −教育家とその学説−』 1936 所収

◇禁転載◇

一七 佐藤一斎と大塩中斎 (抄)

管理人註
  

  (前 略)       や ゝ おく  一斎より稍々後れて大阪に同じく陽明学を奉じた大塩中斎(二四五四年 −二四九七年)があつた。彼は寛政六年徳島蜂須賀侯の陪臣真鍋氏の子で あつたが、後、大阪の与力大塩氏の養子となつた。少壮より文武を励み、 剛毅の性質を以て有名であつた。与力の業を務め、獄吏囚徒の間に閲歴を 重ぬるに及んで始めて学問の必要を痛感し、それより江戸に赴き、林述斎 の門に入つてその非凡の才学を嘱目されるに至つた。中斎は武術に巧みで、 殊に槍術に於ては関西第一の称があつた。二十七歳で吟味役となつて市井 の弊風を改革したが、天保元年三十七歳で致仕してからは専ら学を講じ、 書を著はし、子弟を教育した。天保三年始めて藤樹書院を訪ふてより数次 そこに至りて村民を集めて良知の学を講じた。中斎は東町奉行矢部駿河守 と最も親善であつた。天保二三年より同七年にかけて大飢饉が頻々として 起るに会し、中斎これを座視するに忍びず、蔵書全部一千二百を売却して 価六百五十両を得、悉くこれを窮民に施与した。彼は当時、矢部駿河守の 後任たる跡部山城守に乞ふて倉廩を開いて窮民を救はんとして容れられず、 蔵書を売却して救恤したのを却つて売名の挙として譴責されたので、遂に 彼は天保八年二月兵を挙げ、先づ学徒等数百人は大阪市中の豪商の家を焼 き倉庫を破つて金穀を撒き散らしたが、兵利あらず、翌月隠れ家に火を放 つて死を遂げた。時に僅かに四十四歳であつた。これ即ち有名な大塩の乱 である。中斎の家塾は洗心洞といひ、常に門人四五十人を収容し、前後を 通じて千人以上に達した。就中、宇津木矩之丞最も傑出し、洗心洞の塾頭 であつた。洗心洞に於ける教育は経書を先にし詩章を後にしたもので、そ の訓練は実に酷に過ぎたものであつたが、而も師道を尊び、師弟の関係は 厳正であつた。洗心洞盟約書に一々の個條を掲げ、盟約に反するものは鞭 朴若干を加へた。然し師弟の間柄は極めて精神的に結合で、かの兵乱の際 に、子弟の多くが師と生死を共にしたものである。                      たん  中斎は先づ師弟の名ょ正すことを以て教育の端となし、聖賢の道を学ん で以て人たらんと欲せば則ち師弟の名を正さなくてはならない。然らずし ては、たとひ不善醜行があつても、誰がこれを禁ずるであらう。若し師弟 の名を正しくしたならば、道徳はその間に行はれる。道徳行はれて善人君 子も出るのである。だから名は問学の基であるといはなければならないと                          とも いつてゐる。また喪祭嫁娶及び諸々の吉凶、必ず告げ、与にその憂苦を同 じうす、などの盟約個條等より中斎の教育精神の那辺にあつたかを知り得 るであらう。





二四五四年は
皇紀
1794-1837

幸田成友
『大塩平八郎』
その7















矢部駿河守は
西町奉行















幸田成友
『大塩平八郎』
その159











幸田成友
『大塩平八郎』
その72
 


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