Я[大塩の乱 資料館]Я
2017.3.14

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「大塩の乱関係論文集」目次


『飢饉資料』(抄) その11

司法省刑事局編・刊 1932

◇禁転載◇

第二章 近世の三大飢饉
 第四 飢饉と人口
  三 人口増加阻害原因としての飢饉 (経済史研究一一八頁以下)  

管理人註
  

 而してこれ等飢饉の歳に当りて、飢饉及疾病の為人の死する者甚だ多く、 特に享保十七年、天明三、四、七年、天保七、八年等に於ては最惨烈を極 めたるが如し、佐藤信淵の農政本論に曰く「享保十七壬子の年西海道諸国 凶作甚しく、且又疾熱大に流行し豊前小倉の領内に男女死する者七万人、 肥前国佐賀領内にて男女死するもの十二万人、筑前国に於ても男女死する こと極めて夥し」と。又一話一言に曰「近く尋ぬるに、享保十七年壬子の 歳、西海道の疫病と歉飢に豊前小倉の内、男女七万人の疫餓死あり。肥前 佐賀の内、男女十二万余の疫餓死あり、又筑前国内凡そ三十六万七千八百 余口の中、男女疫餓の死人九万六千七百二十口と記せるとかや」。天明の 飢饉については本多利明の経世秘策、西域物語等にその記事多し。その一 節に曰く「癸卯(天明三年)以後三ケ人凶歳飢饉にして奥州一ケ国の餓死 人数凡二百万人余」云々と。これ等に示す所の数もとより精確ならずと禹、 死亡者の頗る多かりしことは之を知るに足らん。云々(同書一二〇頁以下)。  終りに一言すべきことは、以上諸種の人口増加に対する阻障の中、飢饉 の影響の最も甚しきこと是れ也。蓋飢饉の際に当りては、餓死及び飢餓よ り生ずる疾病の為に人をして死に到らしめ、直接に死亡率を増大するのみ ならず、又間接に飢饉が人口の増加に対して大なる影響を与ふる所あれば 也。然らば其の間接の影響とは何ぞや。思ふに飢饉の後に於ては、一般住 民の経済状態は劣悪となり、体力は疲弊し、且物質の供給不充分なる結果 として、容易に従前の生活を恢復することを得ず。為めに人々の増殖する 程度は極めて緩漫なり。今之を疾病の場合と比較して考ふるに、此の場合 に於てはその影響は一時的なり。蓋疫病終熄の後に於ては、一方には健全 なる人々の残存せるあり、他方には物資の供給は人々の減少せしため却て 豊富となり、労働者の欠乏よりして賃金は騰貴し、その経済状態は一般に 良好となる。故に以前の人々を恢復すること頗る速かなれば也。然るに飢 饉の場合にありては、前述の如く、その事情全く相反し、一時に多数の死 者を生ずるのみならず、その影響の恒久的にして人口を恢復すること容易 ならざる也。而もこのことは単純なる理論にあらず。幕府の人々調査に於 てもあらはれ居る所也。例へば天明六年調査の人口数が、安永九年の調査 に比して、九十二万人の減少を示し、寛政四年の調査が、天明六年の調査 に比して更に約二十万人を減じ、結局両回にて百十万人の減少を示せるは、 全く天明三年乃至七年の大飢饉の結果を現はせるものといふべし。而して 寛政十年とは天明六年の数以上を恢復したりと禹、未だ安永九年の数に及 ばざりし也。其他延享元年の調査数にあらはれたる減少は、享保十七年秋 より翌十八年に至る西国諸国蝗害飢饉の影響に由り、弘化三年の調査数が、 天保五年の数に及ばざるは、天保七八年の飢饉により減少せる人口を、未 だ恢復するを得ざるを示せるもの也。是に由りて此を観るに如何に人に対 する飢饉の直接間接の影響の大なるかを知るに足らん。














一話一言
大田南畝著








































































蝗害
(こうがい)
いなごの害
 


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