Я[大塩の乱 資料館]Я
2017.3.22

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「大塩の乱関係論文集」目次


『飢饉資料』(抄) その19

司法省刑事局編・刊 1932

◇禁転載◇

第三章 飢饉の公的対策
 第二 近世三大飢饉の対策
  (三)天保の対策
    一 饑饉を救ひ給ふ事 (東湖全集八三頁以下)(1)

管理人註
  

 治まれる世にも免かれ難きは饑饉の憂になんありける。其患いつ来ぬべ きとも計り難けれども、二三十年より四五十年の間には必其例しあるよし、 識者のいへる所なり。天明の饑饉より以来五十年計りを経て天保癸巳丙申 丁酉と打つゝき五穀実のらず、天下の青人草数万人失せし事、人の見聞す る所なり。癸巳の年は君(水戸藩主徳川斉明)初めて水戸に至り給ひし折 なれば、御親ら其職々に仰せられ、貧き民を賑はし給ふ。此年八月朔日大 風吹て領中の民家一万二千軒余り 其中八千三百軒は残りなく倒れ、三千七 百軒は半ば潰れぬるよし幕府に聞え上げたりき 或は倒れ或は破れ 目も当てられぬ様なれば、君殊に若干の財を出して救ひ給ふ。されども五 穀実のりしかば大凶年といふ許りにあらず。申の年は五月六日の頃、日々 空かき曇の艮の方より冷やかなる風吹き来りて、其気候二月頃の如くあり ければ、五穀実のらず、天下なべて饑に悩める中にも、関東の国々いと切 なりける。或る日君登営し給ふ時、御駕籠中より飢えたる民の斃れ居た るを御覧じて、三家の君出給ふ時は、其前日に其職の人々君の過給ふべき 道をめぐりて、穢れたる物などありなば老々の辻番てふ者に其由をいひて はらひのけしむ、俄にさりがたき時は道をかへて過給ふに、人の屍はさら なり、犬猫のかばねたりとも御目にふれぬる事なき例しなるに、此年はこ ゝにもかしこにも飢民倒れて道をかふべき道をかへ給ふ事もなしえざれば、 御駕籠の中より御覧せられたるなり、其時餓の多き事を知るべし 屋形に 帰り給ひ有司を召して宣ふやう、貴きも賤きも人は同じ人なるに、いかで 飢に悩みて斃れぬるさまを見るに忍びんや、我領中の民一人たりともゆめ /\飢すべからず、国中に米穀尽きて飢ぬるは止む事なけれども、かたへ には富める者若干の穀を蓄へながら、かたへには貧き者飢て死んとするは 政事の悪きによれりと励し給ひ、郡奉行に御書下賜りて其由を仰せ給ふに ぞ、郡奉行も殊に力を尽して是を救し或は稗倉 稗倉は昔義公の始め給ふ 所にして、代々の君是をつぎ給ひ、中納言の君に至り、殊に夥となりぬ。 凶年の備くさ/\ありと雖も、米穀を貯へれば五年七年に一度旧きを出し て新しきにかへざることを得ず、人々凶年の患を忘るゝに随ひ、自ら利欲 の説起り、徒らに米を積み蓄へんよりは、是を人に貸し出して其利を納め なばいよ/\米穀多くなりて凶年の備も足りぬべきなどゝ言ひ出し、一わ たりはさる事のやうなれども、後には証文手形などいふものゝみ重りて実 の米穀は乏しくなりぬる類ひ、又いと拙きに至りては、凶荒の備よりもま のあたり財用乏しく堪へ難く、米穀を売て金銀となし、徒に費しすつる類 ひなきにしもあらず、然るに此の稗倉の法は年々定まれる額ありて、是を 倉に充てぬる事にて、旧きと新しきとをかゆることもなく、又平年には稗 の価はいと賤きもの久しきを経ても其味去らず、実に凶年に備ふる良法と いふべし、







青人草
(あおひとぐさ)
人民、民草


癸巳の年
天保4年


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