天保八年五月、再び倉廩を発き、府内の窮民を賑救す
町奉行に令知して曰く、 きに賤民の窮困せるを以て米二万苞を賑賜
せり、然るに本年は諸国一般に登麦頗る豊かに収入多きを加ふるを以て
米価も漸次底落すべしと禹も食類匱乏にして尚ほ賤民の窮困するもの多
きに由り、更に浅草米廩を発き米二万苞を賑賜す、其領受の順序は勘定
奉行に商議す可し(天保集成巻三十)
天保八年丁酉三月、天下大に飢う、京都は米一斗価銭四貫文なり、畿内
及び諸道餓 相望む幕府より、二條の穀倉を発して飢民を賑はす(十三朝
紀聞)(大日本農政類編賑済七五頁)
天保八年丁酉七月、諸国へ巡見使を遣はす(続太平年表)(大日本農政
類編賑済七五頁)
以下再び徳川理財会要第十三(日本経済大典第五十三巻三八五頁)
天保八年丁酉七月、吏員をして市街を巡回せしめ、飢民を救助せしむ
町奉行に令知して曰く、客歳以来米価騰貴し、賤民の窮困せるを以て
本年三月各地に賑救廠を建設し、而して道路に彷徨し若くは困倒する者
は、之を看護して該賑救廠に送致せしむ、爾後漸次入廠する者は厚く保
護を加ふるも、今尚ほ飢民の道路に彷徨する者多し、因て今後士邸の近
傍は小人目付巡視して、其護送を指揮するに由り、市街も亦組同心等毎
日巡視して其救助を衰願する者のみを護送せしむ可く、且つ飢民は随意
に其救助を請願す可きを記載して、之を各市門に貼付せしむるを要す
(天保集成巻三十)
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