三十余年前、京師大に飢て、死人ちまたに満り、仍之北野竝東河原にお
びたゞしく小屋をかけ、粥を煮て養ひたまへり、仁心仁聞ありといへり、
然れども目の前の了簡にて、深く考ー給ふに暇なかりしにや、却て費るの
みならず、死人益多くして一人のすくひにはならざりしなり、其仔細を段々
下にのべ侍べし、小屋を大にかくるには先二三日四五日には出来ず、其間
餓死のものまたず、小屋の物入を米にて救はゞ、大勢助るべし、小屋場京
の内にてならざれば、必北野辺・東河原辺なり、飢民それまで足をはこぶ、
其中行斃るゝもの不知数、たとひ僅に粥を得ても、飢民遠路の往来には腹
うゑて不得も同前なり、是恵で費たるなり、京中一二ケ所の小屋にて、京
中の者を聚る故、夥しく推合ゆへ、無力の飢民はたゆること能はずして、
死に至るものあり、大勢のことなれば、役人も多からねば、ならして役人
に与次郎(乞食の惣名)と云ふものをすれば、此飢民には如何様の者可有
も難計、殊に乞食に支配さすは無礼の至なり、其中にもあまも飢ぬ力ある
ものは、老少竝に力なくよろばふものゝ食を奪ひとる騒動あり、夫を制す
るとて棒を以てうち倒す、依之痛もの夥多、却て不仁の事となる、是及ざ
る事にり、大勢の食なれば、時刻をきわめざれば、ならずして、大方四ツ
時に小屋の内へ入るゝ、未明より来て寒気病気にあたりたるもの、四ツ時
まで待て飢死る者有、大勢にて吟味ならざれば、有力ものは二度も受早く
請るに、無力の飢人は押合よろばひて、遅く請て一度も全くは不食、たと
ひ今日受ても明日うゑ、又宿まで帰る事不能にして、野に臥て寒気にあた
る者不知数、野陣にて小屋をかくれば、雨風雪霜の時は不能、なせともい
たみ死す
惣じて食を賜とあれば、午前にて少しづゝもうくるものも、夫をやめて
もらふゆへに、無用の所へ費ゆる錫、釜、桶等大分の物入多し、右の外吟
味すれば、大分の費どもあり、然ば此施行の害は多けれども利益は見えず
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