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常平倉は魏の李里に始り、漢の耿寿昌になれり、穀賤き時に、買ひこみ
て、相場を下落せしめず、貴き時にうり出して騰貴せしめず、士農の為め
にも、工商の為にもよろしき法也、義倉は六朝に始まり、富人倉といひけ
るを、階の世に至りて、義倉と改む、富人どもに義をすゝめ、穀を積まし
めおき、凶年に、貧民を救ふ法なり、社倉は、宋の朱文公に定る、百姓ど
し、社を立てゝ、年貢の外に、分米少しづゝ出さしめ、役人預りをき、凶
年に出して救ふ法なり(按ずるに、後世粗税重くして、当納米の外に、少
しにても、少しにても出さすることはむづかしきこと也。夫も種々仕法あ
りて、小民にても出来る位あるべし。既に朱子の社倉も、糶米は上供米を
拝借し、それを民へ借し渡し、小々の利米を出させ、後には糶米を上納し、
下の積米年々ふへて、多分になれる事、本書に詳なり)。右いづれも良法
なり、仕方は所により、時により、種々あるべし、余もひそかに考へしこ
とあり、義倉・社倉を、ひとつにして、富人に糶米を出さすことなれど、
いまだつくさゞる所あれば、こゝにもらしぬ、さて右三法とも、かゝる凶
年いひ出しても、俄に間に合ふことならざれば、聞人江河の水を引て急火
を救ふ様にいひなし、迂遠と思ふも、あるべけれど、左にあらず、かゝる
年柄のせつは、人々平生のたくはへなかりしを悔み、是後はと思ふ者あれ
ば、却て行るべき也、既に文化文政の頃、米至て賤しき時、此策を行ふは
ずなれど、その時はいつも、かゝるものと心得、たま/\いひ出るものあ
りとも、とりあふ人なくてつひにその機会を失へり、今にもせよ米価常に
もどれば、此頃のことは忘れはて、是等の事は急務にあらずと思ふべし、
さりながら、三四十年の中には、いつも定りて、ひとたび来る飢饉なれば、
今よりその心置なくば、いはゆる遠き慮なくて、憂にあふ事あるべし、町
人百姓は古今をしらずともよかるべけれど、士たるもの古今の治乱興廃に
暗くては、士とするにたらず、わづかに、三四十年に来る、飢饉の事さへ
わきまへず、其手当を忽にする位にては、百年も二百年も、遠ざかれる、
兵革に出合なば、如何処置するやらん覚束なし、さて此積米は数万人
性命の、かゝるところなれば、たとひ勝手不如意の候 諸にても、思ひ立
せられざれば、人の君といひ、民の父母といふべからず、いかほど不如意
といへど、大凶年に逢ひ、其領下のもの餓死するを見ては、すて置君なく、
その時は重代の宝器を、売払ひてなりとも、救ふ気になり玉ふ事にて、近
頃そのためし多くあり、もし豊年に其心になりて、後々の事を考へ、やむ
ことを得ずとなす事を、やむことを得る内に、決断して行なへば、利沢多
して後のうれひなかるべし。
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少しにても
衍か
江河
(おおきな川)
忽
(ゆるがせ)
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