Я[大塩の乱 資料館]Я
2017.4.13

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「大塩の乱関係論文集」目次


『飢饉資料』(抄) その38

司法省刑事局編・刊 1932

◇禁転載◇

第三章 飢饉の公的対策
 第四 飢饉と貯穀
   (一)三倉論
     二 補、常平義倉社倉貯穀之事
         (救荒事宜、日本経済大典第四十六巻三〇八頁以下)(1)

管理人註
  

 常平倉は魏の李里に始り、漢の耿寿昌になれり、穀賤き時に、買ひこみ て、相場を下落せしめず、貴き時にうり出して騰貴せしめず、士農の為め にも、工商の為にもよろしき法也、義倉は六朝に始まり、富人倉といひけ るを、階の世に至りて、義倉と改む、富人どもに義をすゝめ、穀を積まし めおき、凶年に、貧民を救ふ法なり、社倉は、宋の朱文公に定る、百姓ど し、社を立てゝ、年貢の外に、分米少しづゝ出さしめ、役人預りをき、凶 年に出して救ふ法なり(按ずるに、後世粗税重くして、当納米の外に、少 しにても、少しにても出さすることはむづかしきこと也。夫も種々仕法あ りて、小民にても出来る位あるべし。既に朱子の社倉も、糶米は上供米を 拝借し、それを民へ借し渡し、小々の利米を出させ、後には糶米を上納し、 下の積米年々ふへて、多分になれる事、本書に詳なり)。右いづれも良法 なり、仕方は所により、時により、種々あるべし、余もひそかに考へしこ とあり、義倉・社倉を、ひとつにして、富人に糶米を出さすことなれど、 いまだつくさゞる所あれば、こゝにもらしぬ、さて右三法とも、かゝる凶 年いひ出しても、俄に間に合ふことならざれば、聞人江河の水を引て急火 を救ふ様にいひなし、迂遠と思ふも、あるべけれど、左にあらず、かゝる 年柄のせつは、人々平生のたくはへなかりしを悔み、是後はと思ふ者あれ ば、却て行るべき也、既に文化文政の頃、米至て賤しき時、此策を行ふは ずなれど、その時はいつも、かゝるものと心得、たま/\いひ出るものあ りとも、とりあふ人なくてつひにその機会を失へり、今にもせよ米価常に もどれば、此頃のことは忘れはて、是等の事は急務にあらずと思ふべし、 さりながら、三四十年の中には、いつも定りて、ひとたび来る飢饉なれば、 今よりその心置なくば、いはゆる遠き慮なくて、憂にあふ事あるべし、町 人百姓は古今をしらずともよかるべけれど、士たるもの古今の治乱興廃に 暗くては、士とするにたらず、わづかに、三四十年に来る、飢饉の事さへ わきまへず、其手当を忽にする位にては、百年も二百年も、遠ざかれる、 兵革に出合なば、如何処置するやらん覚束なし、さて此積米は数万人 性命の、かゝるところなれば、たとひ勝手不如意の候諸にても、思ひ立 せられざれば、人の君といひ、民の父母といふべからず、いかほど不如意 といへど、大凶年に逢ひ、其領下のもの餓死するを見ては、すて置君なく、 その時は重代の宝器を、売払ひてなりとも、救ふ気になり玉ふ事にて、近 頃そのためし多くあり、もし豊年に其心になりて、後々の事を考へ、やむ ことを得ずとなす事を、やむことを得る内に、決断して行なへば、利沢多 して後のうれひなかるべし。

















少しにても
衍か


















江河
(おおきな川)

























(ゆるがせ)


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