ハ 救荒便覧後集
天保四癸巳年に塾生忠純の語りしは、奥州へ細工に行し松五郎と云ふ者
の話に奥羽辺にて九万三千人許を逐ひ払ひしを見たり、又石の巻と云所に
て盲目三人川端にて終日酒を飲み、其夕皆水に投じて死せり、又婦人子を
川に投げ、ふりかへりて悲歓せしが、立戻り水に投じて死せり、又松の木
へ子を結ひ付、殺せるものあり、江戸にても置去り多し、此頃勢州より来
りし者の話に、道中騒しく夜行はならず、路傍に埋めし新塚凡五百計もあ
りしと、又未だ埋めざるもありて大群り食ひ、烏集りて食ふもあり、自分
行き労れて大なる百姓の家に入り休息せしに、老人と娘と二人居しが食物
の貯へ既に尽き、二人とも一向に食せず、女房は十日許り以前既に餓死躾
は四五日前に餓え労れて死せり親なりと云、我等には少しづゝの食を与へ
られし故今迄は生きのびぬ、永く苦しむより一日も早く死行んこと、今日
の望なり、娘はまだ年若身なれば明日にもせよ、万々一御上より御恵みの
ことにてもあらば命助るべし、老人は早や思ひ残すことなし、女房躾のは
やく死行きしこそ羨し、是迄斯る哀なることは見もせず、又聞きもせざり
と云々、
|