ニ 逸書
天保四年の飢饉に磐城相馬辺にては駅舎容易に旅客の餓者を宿泊せしめ
ざる故に是非なく、餓人共温泉場へ湯治の体にて止宿せしに、累日飢寒に
堪へかねたる者、急に温暖を得て自ら心を盪かし浴室に卒死せし者多かり
ければ、遂に遠方人の人湯を禁ぜられたりと。此辺諸村の内老弱は餓 と
なり、壮者は他領へ出て行き居民三分之一を減じ、或は二三ケ所も明家の
みなりしと。
ホ 官報第四百二十五号 (十七年十一月廿六日)
天保の凶歳に濃川に於ては小判を以て団飯三箇と交換したるものありし
が其の金を得る者は餓死し、団飯を得たる者は之を食ひて幸に其生命を全
うせりと
ヘ 逸書
天保四年の冬より翌春に至て奥羽の飢饉最も甚し、就中南部の或る山村
にて白米を秤にかけて売りしが、買取て見れば一文に七粒づゝに当りたり
しと、又此辺にて小児共の飢えて其母の乳房或は手足などに噛着きて飢え
苦有様を見るに忍びず、篋籠などに入れ、情なくも海淵に投げ棄てし村々
もありしと、又白 を粥の如く煮立てゝ一時の饉苦を凌ぎたる所もあれば、
新築の大厦を僅か四五文に売り、是を船賃となし新潟辺へ辛うじて遁れ来
りし者もありしと、
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