Я[大塩の乱 資料館]Я
2017.4.15

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「大塩の乱関係論文集」目次


『飢饉資料』(抄) その40

司法省刑事局編・刊 1932

◇禁転載◇

第三章 飢饉の公的対策
 第四 飢饉と貯穀
   (一)三倉論
     二 補、常平義倉社倉貯穀之事 (3)

管理人註
  

 穀についで、救荒の備とすべきもの、海草にしくはなし、其類多しとい へど、価至て賤くして、数十年置て、朽腐れず、食して毒なく、飯に糅て 大に助となるもの、荒和布にしくはなし、我藩にも、百余万把も、畜へ玉 ひしかば、此度大に救荒の助となれり、大低二十万把にて、米一万俵の用 をなせば、海国第一の物たるべし、其土に生せず、外より買ひ入ても平生 ならば、至て賤価なるべし、其外昆布以下土地に多き物を、貯ふべし。  薩摩芋多く出来る所にては、干して粉にしおけば、何年にても貯ふべし、 西諸侯の内に右の芋倉二三ケ所も持てるありときけり、この芋は水旱にも、 しひてかまはず土地の肥痩をも論ぜずして、出来るゆゑ、大に救荒の助と なるべし、西国にては、平常とても、百姓の扶食とするゆゑ、薩藩の成形 図説には、穀の部に収め置り。  豊年には、粒米狼戻して、穀類にても麁米に扱かへば、まして海藻・野 菜の類は、棄たり費ゆること多き也。志ある人かゝる時、後年の事を慮ば かり、久々たゆるものをえらみて、たくはへば、費少くして、恵み広かる べし、豊年の時には大根など作るものも、持あるくに荷重くして、直小き ゆゑ、出来あしきものを、抜棄るにいたる、二十年以前の事なりしに(今 の文久より五十余年前のことなり。)大根いたつて能出来て、価賤し、余、 王子辺に行しに、彼辺にては、大根夥敷ぬきすて、山の如く路傍につみし 処所々にありき、かやうの時に少しにても銭をとらせて買ひとらば、誰も すつまじ、干して畜へおき、貴く成てすくひ与へ、又はうり与へても、大 なるめぐみとなるべし、芋・大根も、穀についで、人を養ふ大なるものに て、その干葉も、穀を助べけれど、芋・大根さへも右之通麁末にすれば、 ましてその葉などは、尚吏のこと也、民は事繁くして、遠き慮りなきゆゑ、 穀物さへよく出来れば、他事に及ぶいとまなく、手のまわらぬまゝに、す つるなれば、後をおもんばかる、役人庄屋などはすたらぬ様にいひ付べし、 しかしいひ付るまでにては、やはりすつるゆゑ、少しづゝ銭をやりて買ひ とり、村々の御倉の内に積置べし、穀物も豊穣の時は、麁末に思へど、い たづらにはすつるものなかるべし、畢竟酒など多く作るといふまでなり、 芋葉・大根葉などは、実にすたりついゆるなれば別して惜むべし、(余此 十年以前文政の末のこと也。)飢饉のめぐり来んことを、思ひ、芋葉は救 荒の、助となるゆゑ、すてまじきよしを、知れる百姓にいへど、あへて用           その ひざるゆゑ、試には後園二三畆の間に作る芋葉をとらせ、きざみて、蔭干 しに致す様に命ずれど、婢僕など、面倒がるゆゑ、まづ年々に其内三分一 程づゝ、自らきざみ貯へ見しに、去る巳年にいたつて、米価頗る貴く、小 民やゝ難渋に及びしかば、出入の難渋ものへ、頃数升づゝに、右の葉をこ と/゜\く付てやりしかば、糅へ食ひて数日の食とせり、かく食の助とな り、多分出来るものなれば、在々の心ある有慮のものは、右にいふごとく、 すたる時に、少しづゝ銭を出してかい入れば、百姓共も銭にさへなれば、 めんどうなりとも取収めてすつまじ、但大根葉は干葉にしても三四年たて ば朽るといへば、三年目には困窮者に与へて入替ふべし、(大根葉は作物 の肥になるべし。蓮根には尤よろし。)芋葉は数十年たちても、少しもか はらぬものなれば、大凶年の備となすべし、但いそかしくて、細々切るこ とあたはずば、其儘縄に貫きて、乾し置、揉んで粉にし、貯へばよし、其 は民間にて能知ることなれば、委しくはいふに及ばず、しかし此凶年の当 座には皆々用心し、此等の干葉にて、一旦命をつなぎしものもあれば、た やすくすてまじ、是も十年前後豊熟の節に至り、米両に一石以上にもなら ば、すつる様になるべければ、前方より其心組して、時に当りて、はづさ ぬ様に処置あるべきことにこそ。






糅(まじ)て



















































麁末
(そまつ)


























巳年
天保4年か


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