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義倉は「令義解」に『謂分富賑貧、其義令義、故日義倉也』とあるが如
く、少数の富者が義金義穀を出して、救済のために貯畜するものであつて、
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義倉の義は仁義とか、義捐とかいふ義であり、義歯義子などの義ではない、
及之、社倉は村里の人々が各自に出し合つて貯穀し、救済の目的を達する
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者で、社倉の社は所謂会社、社団法人などの社と同義であつて、「正字通」
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には所謂『団結共事者亦日社』の義である。決して神社の社ではない。然
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し後には、方便として社倉と神社とを結び付け、神社の倉庫、農業の神様
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のお倉だといふやうに、百姓に申し諭して起した社倉もある。この神社中
心の社倉は、姫路、広島藩などに、その例がある。倉敷の義倉(名は義倉
なれど実は社倉の如し)は寺院中心でやつたものである。要するに、義倉
は富者に対する特別の負担であるが、社倉は人民相互の救済方法であつて、
決して義捐とか特別課徴とかの性質を有するものではない。のみならず社
倉は人類共済の思想を涵養し得る美点の存することも認めなければならぬ。
また義倉は、富者の義捐によつて、政府が便宜な所(主として州県市鎮
等)に倉庫を設けて処理するものであるが、社倉は官府とは直接の関係な
く、人民がその居村に於て共同貯穀するものであるから、その倉庫は常に
手近の処にあるのみならず、貯穀は一般に広く普及する傾がある。又イザ
入用といふ時に、直ちに倉を開いて穀物を出すことが出来、又かゝる際に
政府の煩瑣な手続も要せず、極めて簡単に迅速に救済の目的を達すること
が出来る。要するに一は国家の督 監を受け、他は自治的なるの差がある。
以上論ずる処によつて観れば、社倉はその性質上、義倉の一段進歩した
ものと認めて差支ないと思ふ。
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令義解
(りょうのぎげ)
天長10年(833)
淳和天皇の勅に
より右大臣清原
夏野を総裁とし
て、文章博士菅
原清公ら12人に
よって撰集され
た律令の解説書
正字通
(せいじつう)
明末の張自烈に
よって編纂され
た漢字字典
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