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芝の三田に松屋某といふ俄分際あり、人あだ名して乞食松屋といふ、行
状鄙吝なればなるべし、癸巳の秋(天保四年?)八九月より、米価踊貴に
より、この乞食松屋、米六千苞かこひけるよし露顕して、その米庫には町
奉行より封印をつけられ、松屋某は吟味中手鎖にて町役人に預けられたり、
こは九月のことなりき、しかるに九月廿八九日の頃、芝高輸辺本所深川辺
なる町々の木戸、并に橋の欄干などへ張札して、此節米穀高値に付、望之
者は十月朔日より三日の間可被参候、芝三田松屋某と記せしかば、十月朔
日の早朝より、件の松屋の本宅へ米を買んとして来ぬる者幾百人といふ限
りもあらず。この義松屋にては夢にも知らざることなればうち驚ろきて、
さる張札をせし事はあらず、当所は是質店なるに、いかにして米を売んや、
そは聞あやまちたるならんとて諭すを、絶て聞くものなく、正しく処々へ
張札をして置ながら、今さら知らずといはんや、われらは遠方より安き米
を買んとて、けふ一日の商売を休み、且衣物を質に入れて、銭を調へても
て来ぬるに、手を空うしてかへらんやとて、異口同音に罵りて甚騒動した
りしかば、困じて銭二百文をその人別に施して、やうやくにかへり去らせ
しに、近所の貧乏人等件のよしを聞知りて、さらば又われも/\と彼ほど
こしにあはんとて、又数百人群集したるに、後れて来ぬる遠方の貧乏人等
も、等しく松屋の門につどひしかば、幾千人といふことを知らず。かく限
りもなき事なれば、松屋にて後度のものどもには云々をことわりて、些も
ほどこさゞりければ、これよりふたゝび騒動して、相罵ること甚しく、或
は家内へ礫を打つものあり、或は馬の敗れ鞋などを投入れて、殆狼藉に及
びしかば、町役人等立出で、そを制せんと欲りせしかども、数千人の事な
れば、いかにともせんかたなく、行く人路を去りあへず、終日捫沢したり
しとぞ。この日四谷塩町なる某はからずも、件の町を過らんとして目撃し
たりとて、異日予が為にいへり。かの次の日、町触の官令あり。件の趣を
しるされて、向後左様なるこゝろ得違へすべからず。触知らし給ひしとな
り、(中略)
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鄙吝
(ひりん)
いやしくて
けちなこと
鞋
(わかじ)
捫沢
(もんたく)
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