いにしへ賢王の御世に始まりて、民のため諸国郡郷にて救急料とて倉を
建、穀物を畜へ、飢饉其外民の災を救はせ給ひしこと、皆国史に見えたり、
かやうのことも白河院の比より絶へ、乱世の後は、凶年に逢へば、所によ
り小民餓死をまぬかれがたく侍れば、往年或領主之を憐み、兼て飢饉の備
として、凡麦を作る田畠一段に麦二升、年により一升五合納めさせ、又秋
は一段より籾七合を出さぬ、其上領主よりも此籾に少々麦を加へ置きける
となん、年々納むる麦も、籾を奉行を立合、毎年利を加へ、借しければ、
後に甚多くなり、飢饉を救ふに余りありしと
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