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是より後窮民御救として、公儀より江戸中なる裏借家のものどもへ、男
は十五歳より五十歳まで一人別に白米五升、女と小児は白米三升六十歳已
上の老人は同断籾蔵町会所にて下さること両度九月、十月に及べり、さる
程に江戸中の分際と聞えたる町人共も、その居所の裏借家のものどもへ、
或は軒別に施行し、一人別に施行せしもの少からず、当時さげとかいふゑ
せ商人の、そを板して売あるきしかば、世の人の知る所也、施行はおの/\
差ある中に、鹿島清兵衛を第一とす、鹿島は居所の近辺十八町の裏借家の
ものどもへ、一人別に金二朱づゝ施しけり、彼乞食松屋も居所の窮民軒別
に、銭六百文宛施行せしかば、世にめづらしき事也と人みないひけり。そ
が中にその身所持の抱屋敷なる借家のものへのみ軒別に施行して或は店賃
一ケ月分を用捨して取らざるものあり。或は軒別に金一分或は米一二升施
せしものありとぞ。居所の裏借家なるものへは、施行せざるも幾人かあり
けり、この事公儀へ聞へて、御とり調べの上、居所抱屋敷のみの差別なく
施行しぬる家持の町人を、町奉行所へ召出され、御褒美として銀二枚或は
三枚或は一枚下されけり、天明丁未の荒饉等は、江戸にて富民等の施行せ
し事はなかりしに、此度は江戸のみならず、大阪にても分際のものゝ施行
ありと聞えたり、かくまで人の慈善をなす事御仁政の余沢なるべし。しか
るに十一二月の比、彼居所へは施さずして、その身の抱屋敷なる店々のも
のへのみ施行したる富民等は、米安売の札を張られて、その米を買はんと
て群集せしもの、松屋のごとくいたく騒動に及びしとぞ、其張札をせしも
のを猜するに、そが居所なる狡児等が所為にて、抱屋敷の店々のものへの
み施して、居町のものへ施行せざりしを遺憾に思ひて、さるまさな事をせ
しならんといへり。しからばはじめに松屋の張札をせしも、下女の寃鬼の
わざにてはあらで、居所の悪棍の所為なる歟、又松屋へ張札したるは寃鬼
の所為にて、後に張札をせしは、そを師にしたるわるものゝわざなるべし
といふものあり、(中略)
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寃鬼
(えんき)
無実の罪で
処刑された
人の恨みの
こもった霊
魂
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