Я[大塩の乱 資料館]Я
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大塩の乱関係論文集目次
田中従吾軒翁の「大塩平八郎の話」を読みて
初月楼主人
読売新聞 1896.9.26/28 所収
読売新聞 明治二十九年九月廿六日
寄 書
◎田中従吾軒翁の「大塩平八郎の話」を読みて 初月楼主人
丁酉の事を記したるもの浪花津芦話、酊醒録、塩逆述、天保太平記、塩賊録の如き、その書少からず、然れどもおほむね幕府の盛時に成りたるをもて、有司の嫌忌に触れむことを怕れ、強ひて事実を誣(し)ひたるもの太だ多し、洵(まこと)に大塩平八郎のために悲しむべきなり。近時森田思軒居士もまた平八郎の遺事逸話を物したることあれど、伝聞者より伝聞せる所を直にその真訛をも究めずして記したるものなれバ、決して丁酉の史を補ふに足らざるなり。
この頃たま\/名家談叢第十二号を閲(け)みするに、中に田中従吾軒翁が大塩平八郎の話を収む、はじめおもへらく、翁ハ漢学者中の老宿にして、身幕府の盛時に遭遇したる人なれバ、必ず平八郎の行状を窺ふに足るものあらむと、之を一読するに、満幅多くハ誤謬にして、実に思軒居士より太甚しきものあり、遂に黙するに忍びず、此に節を逐ひ聊か平八郎のために弁ずることとハなしつ。
そも田中翁ハ、すべて岡田弘安(即ち長崎の岡田穆なり)の談話に拠りたりといへれど、岡田氏みづから記する所に太(はなは)だ違ひたるふし多し、こハ田中翁ハ平八郎を誣ひむためにハあらで、まつたく記憶の誤にやあらん。はじめに平八郎と宇津木静区との師弟の関係を語りていはく、
宇津木ハ江州彦根の家老の息子であつて、大変行状も善く、又学問もありましたから、大塩ハ此人に己れの塾頭をして、万事塾の世話をして呉れろと云つて頼に来た。
これ誤れり、静区いかで頼まれてその門下生たる人ならむや。碧血余痕、静区遺稿に岡田氏の撰みたる伝を載す、之を一読せバ明ならむ。
(上畧)頼山陽中島棕隠文名喧于京師。先生往学焉。甞読陸象山集。観其自立之説亦概曰。儒者当如此。於是専精覃思。学之有年矣。会大塩氏唱姚江之説於大坂。即往而論心理。頗服其説。竟執弟子之礼。
町奉行との関係につきてハ、前の町奉行ハ何事をも大塩に任かしおきたる故に力を尽くしたりといひ、跡部大炊頭をもて矢部駿河守とならび称し、平八郎ハ跡部と並立する能はずして退隠したりといへり。是れ大に誤れり、平八郎を信任したるハ、前々の東町奉行高井山城守実徳なり。平八郎ハ山城守の老を告ぐるに先つて退隠す、実に文政十三年庚寅の七月にしてその年三十七歳なり。また跡部大炊頭といふ町奉行ありしを聞かず、町奉行の跡部良弼ハ山城守といひ、大坂城代土井利位ハ大炊頭と称したり、けだし田中翁ハ土井、跡部を併せ誤りたるならむ。高井の後に奉行たりしハ即ち矢部駿河守、駿河守の後に来りし者ハ是れ跡部良弼なり。この跡部ハ、決して矢部駿河守と併称するほどの材幹ありしにあらず、藤田東湖先生の随筆にいとおもしろき話あり、いはく、
丙申の秋、大坂町奉行矢部駿河守勘定奉行に転ず、山城守其後任を命ぜられ相代らんとする時、跡部、矢部に町奉行の故事並に心得となることを聞く、矢部如此申送りたる後云ふ、与力の隠居に平八郎なるものあり、非常の人物なれども、たとへバ悍馬の如し、其気を激せぬやうに
すれバ、御用に足るべし。若し奉行の威にて是を駕御せんとせバ危きなりと語るに、跡部ハ唯々として退き、人に語りて曰く、駿州ハ人物ときゝしに相違せり、大任の心得振を問ひしに、区々として一人の与力隠居を御するの御し得ぬのと心配するハ何事云やと嘲りたり。翌年に至り平八郎乱を起し服誅といへども、跡部奉職無状と世人指を弾し、駿州の先見を称誉せり云云。
これにても二者人物の優劣を窺ふに余りあり。なほ跡部が奉職中の行状など、矢部に比して言ふべき事実多くあれども、さのみハとてもらしつ。丁酉挙兵の原因として、田中翁ハいはく、平八郎ハ貧民を賑恤せむことを跡部に願ひしに、跡部ハ頭ごなしに平八郎を叱りたりき、故に「此町奉行さへ亡くしてしまへバ宜いと云ふ了簡になつて、遂に町奉行を討つ企を起した」と。田中翁ハ丁酉の事を見る浅しといふべし。若し翁の言の如くならバ平八郎ハ西野文太郎とひとしなみの当時謂はゆる壮士而已。翁に勧む、挙兵の檄を読めよ、勤王勤民の大義を発揮して余薀(ようん)なし。平八郎ハ実に春日潜庵先生のいひしごとく維新の先鞭を着けたるものなり、この事につきてハ、余ハ別に一文を物して、つばらに弁すとることあるべし。
田中翁ハまた平八郎が町奉行への面当のために、鴻池、鹿島(加島)などの豪商にせまり金を出さしめて貧民を賑恤したりといひぬ。これまた誤れり。平八郎ハ、窮民の飢寒にせまれるを視るに忍びず、門下の与力庄司義左衛門ら二十余人と謀り、その世禄を抵当となして金を借り、そを奉行所に献じて賑恤に供せむと欲し、鴻池善右衛門に説く、三井氏よて(り)平野屋五兵衛、三井八郎右衛門、天王寺屋五兵衛、加島屋久右衛門、同佐兵衛、米屋平右衛門、炭屋彦兵衛、辰巳屋久右衛門に謀るに、衆議協はず、遂に平八郎の嘱を辞したりしなり。彼らの銭穀を施したるハ、二月二十一日すなはち災後なりき。おもふに与力同心らが家禄を抵当として金を借らんとせしことと災後の救恤とを合せて誤りたるものならむか。(未完)
読売新聞 明治二十九年九月廿八日
寄書
◎田中従吾軒翁の「大塩平八郎の話」を読みて(承前) 初月楼主人
翁ハつぎに平八郎と城代の兵との闘争を述ていはく、
其時大塩の手下に金助(姓ハ分らぬ)と云ふ者があつた、是が大砲の大将であつて、大炊頭の勢に向つて烈しく大砲を打掛けたが、是にハ余程困つて、大炊頭の方ハ所詮勝つ見込ハないくらゐであつた、ところが大炊頭の同心に坂本金之助と云ふものが居つた。此者ハ予て狙撃に達して居るところから、小銃を以て金助を狙撃せし云々。
こハ平野橋の戦闘なるべし。されど金助とハ何人なるや、大塩党の中に此の如き実名仮名の者ありしを聞かず、恐らくハ梅田源左衛門の誤なるべし。源左衛門が山城守を悩ましたることハ諸書に見えたり。坂本金之助といへるもまた坂本鉉之助の誤なり。坂本ハ跡部良弼の組同心にあらず、大坂御定番遠藤但馬守組与力なり。この時坂本ハ城代の命をうけて本多為助、山崎源四郎、左尾清次郎らと共に良弼を援け、源左衛門を仆したりき。また坂本ハこの功をもて一人扶持三十俵の同心より一足飛に二百三十俵の与力に昇進せりといふ、これまた誤れり、幕府より大坂城代井上河内守を経て下せる申遣書を見れバ明なり。
遠藤但馬守組与力
坂本鉉之助
去酉年、町奉行跡部山城守組与力大塩格之助養父大塩平八郎頭取徒党之者共、其地市中放火及乱妨之節、山城守馬前に進み鉄砲打立、同勢を抽、賊徒之内へ附入、大筒取扱候者を矢庭に打取候に付、忽散乱に及候段、抜群の働に候、依之其地御鉄砲方被仰付、席之儀者、御目見以上
之末席と可相心得候、且又別段為御褒美銀百枚被下、並に町奉行所へ取上置候平八郎所持之大筒一挺被下之、但御宛行者、取来通被下之。
平八郎ハ潰散の後、「一旦死罪に決したのを大塩が再び吟味し直して冤罪を助けてやつた」縁故をもて美吉五郎兵衛の家に投じたりといふ。この説疑ふべし、当時の書おほむね美吉屋(或ハ三吉屋に作る)五郎兵衛妻つねハ格之助の乳母なりしゆかりをもて投じたりといへり、その他異説多し、中尾氏の論伝にハ、
といひ、鈴木氏の江戸政記にハ、
初平八郎周游諸国。途遭一女為兇徒所劫。平八郎逐兇徒。援女送帰其家。女感激不已。及其敗。投匿染工家。染工某即女父云。
といひ、いづれをそれともわきがたし。されど頼山陽がいひし如く家に獄銭を入れざりし平八郎が如何ばかり其身迫りたるとて、公事ありし故をもて其家に依りしとハ信じがたかり。なほ考ふべし。
さて平八郎のために弁ぜざるべからざるものあり。田中翁ハ、平八郎みづから手を下して宇津木静区を刺したるごとくいへり、いはく、
大塩が抜刀を提げて来て「宇津木さん」と声を掛けて斬掛けやうとすると、宇津木が「待て」と言つて手を洗つてから徐(しづ)々と首を延して斬られた。
これ大なる誤なり、静区を刺したるハ実に大井正一郎なりき。岡田氏の静区伝にいはく、
会賊徒大井正一郎等数人提刀而来。先生(即ち静区を指す)在厠。疑其逃而去。穆即往告之。先生曰。固当然。尚何怯焉。出而盥。正一郎又来。先生叱穆而去。已而正一刃先生。先生従容伸頚受之。未殊。穆不忍去。先生瞋目大声叱之曰。去々。嗚呼。声尚在耳。而竟為永訣矣。
平八郎の手を下さゞりし知る之より慥なる証拠なかるべし。そも平八郎ハ素より静区を殺すの意なきのみならず、具さに慰諭して国に往かしめ
むとせしに、衆肯ずして之を殺す。正一郎の帰報するや、平八郎蹙額して嘆じたりといふ。こハ島本仲道翁も記したりき。
如上ハ田中翁の談話中の大なる訛誤につきて弁じたるのみ。その小なるものにいたりてハ、悉く之れを言ふの煩はしきに堪へざるをもて此に止めつ。
たゞをはりにのぞみて一言せむ、余もとより余姚を奉ぜず、また強(あなが)ちに紫陽を排する者にあらねバ、その学術に党して然るにハあらず。斯く弁ずるゆゑんハ、平八郎が訛伝の中に埋没して、遂にその真を知るものなきにいたらむことを悲しみてしかるのみ。(完)
「塩逆述」目次
一点外史「田中従吾軒翁の「大塩平八郎の話」を読みてと題せるを読みて初月楼主人に与ふ」
田中従吾軒「大塩平八郎の話」
田中従吾軒「再び大塩平八郎に就て」
大塩の乱関係論文集目次
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