Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.10.3修正
2000.6.14

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大塩の乱関係論文集目次


「再 び 大 塩 平 八 郎 に 就 て」

田中従吾軒述 武陽生速記

『名家談叢 第14号』 談叢社 1896.10 所収

         

大塩平八郎の話を名家談叢第十二号に掲げたところが、初月楼主人が「田中従吾軒翁の大塩平八郎の話を読みて」と題する一篇を読売新聞に寄せて、私の大塩談を熱心に攻撃されたるは、私の謝するところである。然るに主人の攻撃されたるは、専ら枝葉の瑣事に渉り、大体の眼目に就ては頗る冷淡なるは、聊主人の為めに惜むところである。私の大塩談の眼目は、大塩は時の町奉行に怨恨を含み一揆を起したので、決して世人及初月楼主人の云ふが如き、勤王の大義を発揮したの、維新の先鞭を付けのと云ふやうなゑらい事でもなく、又大塩はそれ程ゑらい人物ではないと云ふことを弁ずる為めに大塩の人と為りを述べ、延いて瑣事に渉つたのである。然るに主人は熱心に枝葉の点に向つて数多の攻撃を加へ、其大眼目を軽々に看過されたるは、歴史を攻究する者には不似合であると考へる。因て茲に聊それを弁じやうと思ふ。

王安石も云ふ通り、歴史も当てにならぬことがある、故に之を読む者は真偽を鑑別しなければならぬ。歴史を書く者は己の好むところに偏するの嫌ひがある。又政府で歴史を書くにも朋党があつて、己の党派の為したことは善く書くが、反対の人の為した事は悪く書くやうなもので、是は人情の免れぬことである。大塩の事を書くに当つても、大塩は勤王家である。維新の先鞭を付けた者であると云ふことを頭に入れて置いて書けば、大塩の為した事は凡て勤王になるやうなものです。大塩の時代には、勤王を唱へて幕府を倒さうなどと云ふ考はない。彼の高山彦九郎が勤王を唱へて、諸国を泣いて歩いたが。それとても幕府を倒すなどゝ云ふ考はない。唯京都の御威光の衰へたるを嘆いて歩いたに過ぎない。況や大塩は勤王家で維新の先鞭を付けたなどとは、思ひも寄らぬことで、是は時勢を知らぬ論である。大塩は全く町奉行に怨恨があつてたまらないで、彼の挙を為したのである。

然るに初月楼主人は、頻りに書物に依つて、大塩を弁護されるが、前にも云ふ通り、書物も決して当てになるものではない。現に彼の赤穂義士の事にしましても、室鳩巣の書いた義人録が漢文で出来て居る、鳩巣は当時の奥儒者と云つて、当時の将軍家の御師匠番で、政治にまで立入つたゑらい学者である。其人の書いた義人録には、寺坂吉右衛門は足軽であるから、復讐に連れて行くのは可哀さうだと云つて、御本家の安芸様へ使にやつて、命を助けたとある。又雨森東陽と云ふ徂徠の弟子の書いた烈士報讐録は、是も漢文で書いてあるが、それには寺坂吉右衛門は復讐の時吉良の門の処まで行つたけれども、足軽の悲しきに怖くなつたと見えて、それから先きは見えなくなつたと書いてある。当時の学者が二人で同一の事を書いたのに、斯の如き間違がある。どちらを信じて宜しいか分らない。又支那の歴史などにも往々さう云ふ例があるから、主人も唯書物のみに依つて、大塩は勤王家である、維新の先鞭を付けたものであるなどゝ云ふは。大なる間違で、即ち大塩を買被つた説である。

大塩は前回にも述べた通り極く負け嫌ひの人であるから、自分の言ふことを唯々諾々ときいて居れば宜しいが、若し之に逆らうと、直に怒る。自分の弟子などは家来の如くにして、講釈をする時大塩が来れば、シイシイツと警【言畢】の声を掛ける。さうすると弟子がピツタリ頭を下げて拝をして居る。其くらゐ傲慢な人でございました。と云ふのは大坂には士が少ないから、与力は賎しい役だけれども、所謂鳥なき里の蝙蝠で、市中の訴訟などを捌いて居たから、大層勢力があつて、弟子などを取扱ふのも家来のやうであつたが、学問も何もあるのではないと云ふことは、洗心洞箚(記)を見ても知ることが出来る。それだから小竹などに馬鹿にされたのです。

大塩の固陋なる学に就て最も可笑しきことは、頼山陽の弟子で後に篠崎小竹の婿になつた後藤松陰と云ふ人があつた。此人は私も知つて居ますが、山陽は李北地の詩が嗜(す)きで、山陽の詩の中には李北地の詩句を盗んだのが往々ある。或時後藤が大塩の処へ使に行つて、語次「山陽は北地(李北地の李の字を省き)が嗜きでございます」と言つた。当下(そのとき)大塩の弟子が「先生北地と云ふのは何でございき(ま)せう」と云つて聞いたところが、大塩は李北地の名を知らぬから「さうさ北地は寒いから山陽先生熱いのに困る人と見える」と答へし、杜撰のことを後藤が笑ひ話しにしたことがあります。又大塩は少し槍を使ひましたが、槍を突くに、マイターなどと声を挙げるところを大塩は『思無邪(しむじや)』と云つて突いたと云ふ。畢竟田舎儒者だから、そんな漢語を使つたので、抱腹に堪えない。是にても其人の傲慢なることが知られる。

初月楼主人は岡田弘安の書いた宇津木伝を引用して頻りに非難されたか、宇津木伝は岡田の話を聞いて、私が書いたのであるから、若し私の言つたところに誤があると思へば、宇津木伝を本当のものと思へば宜しい。若し宇津木伝は私の書いたものでないと思へば、岡田はまだ達者で長崎に居るから、問合せれば知れることである。岡田は前号にも述べし如く、私と同門人であるから、自分に代つて宇津木伝を作れと私に頼みし故、岡田と相対して十余日掛つて書いた。岡田は宇津木の話の遺稿を所持して居て、他日それを刊行する時、宇津木の伝を載せる積りで私に托したのである。

序でに宇津木の事に就て前回に話し漏したことがあるから、補つて置きます。或時大塩が大勢弟子を集めて話をして居る時大塩が「人の食を食らう者は人の為めに死すると云ふことがあるから、君も命を捨てなければならぬ場合があるではないか、ナア宇津木さん」と、宇津木の方を向いて言つたところが、宇津木は座を正して「私は伊井(井伊)掃部頭と云ふ主人がござる」と言つた。是は大塩の乱の前のことで、大塩が謎語して諷した故、宇津木は痛く之を拒んだのである。是も岡田が私に話したことであるが、宇津木はナカナカゑらい人物です。

唯坂本弦之助(十二号に金之助とあるは誤りで、読売新聞に鉉之助とあるも誤りである)の事は、少しく誤があるから更に再演して置きませう。大塩の大砲頭に金助と云ふ浪人があつた。此者の撃つた弾丸(たま)が坂本弦之助の立つて下を向いて居る笠の後ろの方をかすつた。そこで弦之助は弾丸が高い処を通ると云ふことに気が付いたから、火煙の中を這つて天水桶の処に行つて、金助を三四間の処にて狙撃して之を倒したのであります。又大塩が自身で宇津木の首を刎ねたやうになつて居ますが、是は大塩が自分で刎ねたのではなく、大塩の門人大井正一郎と云ふ者が宇津木の首を刎ねたのです。大井は後捕はれて町奉行で吟味の時岡田と対決して、其事を白状に及んで、斬罪に処せられました。

  (完)


【管理人註】
「坂本金之助」は、玉造与力「坂本鉉之助」のこと。

参考
井上哲次郎「宇津木静区
原口令成「宇津木矩之丞臨終の実況
大塩平八郎叛乱紀事附録 宇津木敬次告訣手簡」(事実文編)


初月楼主人「田中従吾軒翁の「大塩平八郎の話」を読みて
一点外史「田中従吾軒翁の「大塩平八郎の話」を読みてと題せるを読みて初月楼主人に与ふ
田中従吾軒「大塩平八郎の話

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