Я[大塩の乱 資料館]Я
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2001.1.22

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎 挙 兵 の 顛 末」
その2

『商業資料』大阪経済社 1893.12.10 所収


◇禁転載◇

適宜、読点・改行を入れています。


商業資料 明治二十六年十二月十日

大塩平八郎挙兵の顛末(其二)

  

同心平山助次郎変心の事

頃しも二月十九日、両町御奉行北廻り御巡見と定まりて何れも準備をなしけるが、東組同心平山助次郎ハ、倩々(つら\/)往時を考へて当時御治世の難有き徳化に従ハざる者なきに、我等如き者共申し合せて事を挙るハ、蟷螂が(たうらう)斧を以て龍車に向うに同じ、我一旦は悪事に与するとも、今本心に立帰り、此一大事を訴人せバ罪を逃れんも図られずと、十七日の夜に、東御奉行跡部山城守へ封書を以て申すやう、

此度大塩父子と密謀を企て、是に一味の輩らにハ、当組小泉淵次郎、瀬田済之助、吉見九郎右衛門、恐れながら某等その他多人数一味なし、火矢大筒などの兵具を用意仕り、近郷の百姓を語らひ、兼て仰出されたる此十九日御両所樣御巡見の砌り、朝岡助之進(朝岡助之丞)かたへ御休息あらせらるゝを窺ひ、不意に起りて御両所樣を討取たる上、その虚に乗じて大阪市中を焼払ひ申べしとの企てに一味連判ハいたしたれ共、熟々(よく\/)考へ見候に、試(誠)に天下の動乱と只今に至り心付き、空怖しく存ずれバ、此段内密に申し上候

との趣旨を差出置き、その身ハ我家へ帰宅の上家内の者江ハ、此度江戸表江急御用にて罷越と申し聞け、その儘出奔なしたるける、

翌十八日、山城守にハ、右の次第なれバ容易ならずと西町奉行堀伊賀守へ談合なし、与力吉田勝右衛門を召し出され、疾(とく)と実否を糺すべき旨申し付られしより、同人の答へけるハ、格別の事とも相見へ申さず、と言上しけるも、奉行にハ尚も不安意に思されて、又々勝右衛門を召出し再応の吟味を命じけり


  大塩方と奉行方合戦の事
    附り 市中大火の事

かゝりし程に、大塩方にハ前日より一味の党輩(ともがら)寄りつどひ、弥々翌日花々しく本望遂んと勇み立ち、先づ兎角も今宵の内ハ事無き風を装ふて役所の泊番に行べしと、瀬田済之助小泉淵次郎の両人ハ各自用(とのゐ)意も勿卒(そこ\/)に役所へこそハ到りける、

奉行所にても、予てより吉見平山の内訴の趣旨容易ならじと厳重の評議のありしと聞くからに、沢立胸を押鎮め、左あらぬ体にもてなせバ、扨ハ彼奴等変心せしか、憎さも悪し臆病奴と、憤怒は髮を逆立てけり、然(され)ども最早我等とてむざむざからめ捕れんより、我から彼処(かしこ)へ踏込で討て捨んはいと易けれど、何卒して此由を大塩へ注進なし、又兎も角も善術(よきすべ)を談合なさん、と気を静め何気なき顔して居たりしが、ハヤ日も西に舂(うすづ)きて、次第々々に暮れ渡り、何(いつ)しか初更も過ぎ渡り、四隣に人の声だになけれバ、時分は如何と、宿直の誰彼、窃かに鯉口寛げて闌(たけなは)なるを待居たり、

(かく)て、亥刻過ぎし頃、梢の嵐吹き送る、遠寺の鐘の音ものすごく、水も寝入るや丑の刻、扨こそ時を移したりと、ぬき足さし足忍び入り、難なく寝所へ寄らんとせしに、斯有なんと此方にも用心厳しく、護衛の近習スハ曲者と物をもいハずやり過し、柄をも砕けと打込む切先、ねらひ外さず肩先より四五寸許切り下げたり、

哀れや小泉淵次郎、急所の重傷に堪えやらで、(どう)とバかりに仆(たふ)れけり、

斯と見るより瀬田済之助、当座の敵とハ思ひしが、大事の前の小事にて、あたら非命に斃れんより、少しも早く此事を告たる上と、踵を返し、庭の彼方の稲荷の横より築地の塀を乗り踰えて、大塩方へ駆付けて、有し事共物語り、評議の末に大塩ハ、先(さきん)ずれバ人をも制し、一歩おくれバ制せらる、者共用意、の号令に勇気凛々しく整列し、先鋒(さきて)ハ元より中堅後陣(しんがり)、イザとバかりに整へけり

かくと見るより平八郎ハ、我と吾邸(わがや)に火を放ち、一度にどつと鬨の声を揚げたるハ、実(げ)に二月十九日辰の刻とぞ知られたり

火の手ハ、隣れる与力同心町一円に燃移り、夫より北同心町北与力町を西へ走り、十丁目を南へ天神の社ならびに表門九丁目を市の側迄燃抜たり、

折柄西風烈しきゆゑ、見る見る一度に黒烟り、東の方ハ両御堂夫より、権現宮に移りなべて、此間の人家ハ更なり、

火元より南の方川崎の家々皆焼払ひ、天満橋通は北詰より、北へ天神橋通ハ綿屋町に至るまで、瞬く内に炎となり、烟の中より老若男女救助を叫ぶ声凄じく、逃路(にげば)に迷ふて犇(ひしめ)く有様、かねて冥界に有と聞く、阿毘地獄も斯やとバかり思ハれたり、

左れバ民家の人々ハ、如何なる所の過火(そゝうび)と、疑ひ惑ふも道理なれ、

斯りし間に鉄砲の音ハ<近隣(あたり)に鳴りひゞき、天地も崩れんバかりにて、諸人の騒動大方ならず、天神橋の北詰の、一段凄き黒烟の、下より出る白旗二流、民を救ふ、墨黒々に、記しなしたる幟を中におしたてゝ、颯と靡かす、春風に橋なかバまで押しわたる、

折しも、南詰の橋板を切落さんと、役人村人火消の人足四五十人も居合せしが、此旗色を見るよりも、どツと叫んで馳向ふと、見へしに如何なしけん白旗ハ、次第に北へ立戻り、市の側を西へ大平橋を打渡り、難波橋の北詰より南へ向ひ、数々(しば\/)鉄砲うち放し、ドツと揚げたる鬨の声、この勢にや乗じけん、真一文字に走渡り、続く数百の徒党の面々、何れも武具に身を堅め、全軍さながら猛虎の吼るが如く、烈風の荒(すさ)むに彷彿(さもに)たり、

揉にもんで押渡ると見へしが瞬く内に、今橋通り鴻池へと押寄せたり、時なるかな\/、此家ハ、恐れ多くも将軍家にも目出させ玉ふ第一の有福長者にありけれバ、数多の人々ありけれ共、門にハ旗差物をおしならべ、鎗長刀を建てつらね、多くの鉄炮石火矢の筒先揃ひて容赦なく、打掛々々投火矢に火を移してハ、無二無三投げこみけれバ、何かは以てたまるべき、皆裏門より落られける、有繋(さすが)に名を得し広屋形も、天井建具に燃移る、

それより東へ路をかえ、天五三井岩城など、上町にてハ米平の一統、その外名立るあまたの豪族へ、鉄炮うちかけ火を放ち、剰(あまつさ)へ金蔵穴蔵衣裳蔵、あハてふためき辛じて扉(とざ)せしを、矢庭に火をかけ打ち破し、数多の金銀財宝ハ、みな炎々と燃上り、一時の煙と消(きえ)てれり、

斯て所々方々を蹂躙(ふみにじ)り、淡路町堺筋まで、只一ト揉に押寄せたり、かゝりしかバ、町奉行、肌にハ小具足、上に黄羅紗の火事羽織、錦の野袴、白と紅の二重錣(ふたへしころ)に金覆輪(きんぷくりん)、とツたる白金の兜頭巾を召れ、河原ものたくましきに金銀をちりバめたる鞍をおかせて、是に跨り、歩卒五六十人に鉄炮を持せ、抜身の鎗廿人あまり、弓勢十騎バかりにして、猩々(しやう\゛/)緋の御馬印を真先にすゝませ、いと儼然と待玉ふ、

斯と見るより大塩方ハ、スハヤ奉行ござんなれ、彼奴引くんで一人も洩さず討取れ、と得物々々を取直し、一度に合す鬨の声、鉄砲の音もろともに只一ト揉と、面(おもて)もふらず真一文字に奉行をめがけて突ツかゝる、

待設けたる奉行方ハ、先鋒(さきて)に備る弓鉄炮、火蓋を一度に切放ち、なほもつめかえ引替て、茲(こゝ)を先途と戦ふたり、

さすが手練の大塩方、この勢になやまされ、幟の手しどろに見へけれバ、馬を進めて御奉行ハ、鞍につツ立ち声高く、やおれ平八郎、汝何とか思ふらん、忝くも君の御先祖を安置し奉る御宮をはじめ、神社仏閣に火を放ち、多くの民家を焼立て、剰(あまつさ)へ我君の厳命を蒙り奉り、此地の奉行たる某に、敵対の所存 御上を恐れざる條、傍若無人、言語道断いハれなし、如何汝が思ふとも、鶏卵を以て盤石を突がごとく、所詮およバぬ灯心に半鐘、実(げ)に小人ハ閑居して、不善をなす迹(あと)から悔む、下司の知恵、はした学問井の内学者、水の月とる猿、ものどもを、夫(それ)討とれツ、と下知の下、

大塩馬上につツ立上り、黙れ奉行の文盲ども、勿体なくも、我こそハ、天正年間、東国に威を轟したる、今川治部太輔義元の末葉にて、京都阿弥陀ケ峰なる豊国大明神の誓子なり、虎の威を仮る狐共、近年所々の天変あるハ、民の油を絞りとる、汝等の誡戒(いましめ)とも心得ず、府下の豪族と腹を合せ、己の慾を充すとも、民の苦み露知らず、天下の政道を町人の賄賂に売り、驕奢にその日を送るゆゑ、摂河泉播の百姓より、泣訴ふこと再び三度止ことを得で、天誅を加へ、民の塗炭を救ふ為なり、斯る者等に問答無益、イデ\/、奉行を討取れツ、と采配もツて麾(さしま)ねけバ、血を啜りたる決死の面々、ドッと叫(おめ)いて詰めよせたり、

斯る所へ、尼ケ崎後詰の兵士五百余人、城内鉄炮組五六十人、とりかえ引かえ駆たてけり、大塩方ハ斯と見るより、スハ援兵の来りたりと、鎬(しのぎ)を削りて戦ひし が、味方に後詰ハ来る道なく、敵は新手を入れかえ繰替雲霞の如く攻め寄すれバ、一度にドツと崩れかゝり、足元しどろに見へにけり、

奉行ハ、声も高らかに、逃る端武者に目なかけぞ、民の安否ハ大塩一人、命惜まず討取、と鐙踏バり鞭をあげ、士卒に下知して追懸る、折しも丑寅の風激しく、黒雲地上に舞下り、さながら闇夜の如くなれはねさしもの討手も進みえず、暫しためろふ其隙に、何処ともなく落失せしたり、

大事の敵を見失い、歯がみをなし、命冥加な曲者、なか何までなりと犇(ひしめ)けバ、此時奉行ハせいすらく、やおれ者共長追無用、たとひ此場ハ遁るゝとも、袋の鼠にことならじ、如何なるところに忍ぶとも、明き土地(ところ)に王法あり、闇(くら)き山河(ところ)に神名あり、何処に私のなるべきぞ、頓(やが)て手に入る籠の鳥、かく迄に追散さバ捨ておくとも気遣なし、先づ此上ハ所々の猛火を鎮ん、とありけれハ、討たる首を貫きて、列を正しく討手の人々、本町橋を静々と、城の方へと引き揚げたり(時に十九日八ツ半時)、 扨もお城の構向ハ(当時御城代土井大炊頭)、追手先に柵を結ひ、幕うちまわし、数多の武士小具足に身を堅め、上に火事装束を被(ほふ)り弓鉄炮を二段に備へ、次にハ長柄の鎗、その後方(うしろ)ハ騎馬歩武者、何れも得物を携ひたり、近国の城主、未明より大阪変火の由を聞き、固めの人数夥多しく馳付け来ること引も切らず、追手先に幕うちまわし、思ひ\/に備へを立てぬ、

尼ケ崎の城主巳の刻に三番手まで惣勢一千余人、かための場所ハ追手柵際より南へお堀端に三段に備へ、後詰の人数五百余人、(到着の砌場所へ掛合せしハ此勢なり)幕打ち廻して扣へたり、扨陣々の有様は、立ちならべたる諸家のさしもの、馬印はげしき風に飄(ひるが)へり、駒の嘶(いなゝ)き轡(くつわ)の音、火縄の烟り朦々と、中にも目立諸家の大将、下は小具足いと美々敷、上にハ美麗の火事装束、我劣らじと床几にかゝり、隣(あたり)もまバゆき打装(いでたち)ハ目をおどろかすバかりなり、

(さて)も徒党の面々は、淡路町堺筋の戦に、惣崩れして落ちけれバ、人々漸々堵(おち)居たれど、西南より吹く風はげしく又、西北より南に変り、東風にとなり、又北と変じ時々刻々に換るゆゑ、諸々方々に飛火して、猛火ハ八方に広がり、船場にてハ、北ハ北浜より、西ハ中橋通、南ハ安土町、東ハ東堀一円、天満にてハ、西ハ堀川辺より東へ残らず焼失せ、上町にてハ、北ハ八軒家より、西ハ東堀思案橋まで、橋南ハ東角の家尻を南へ御番所の北まで、御役所より南へ、西側ハ残り、東側ハ松屋町通本町まで抜たり、東へ谷町通両側、茲より北ハ東御役所丈け残り天満橋南詰まで昼夜に焼抜け、翌廿日夕方に風歇(や)み、雨降出し、戌の刻より大雨となり、廿一日寅の刻に至り、弓町山村屋敷へ燃移り、是にて火も鎮まり、市中の人々やう\/安堵の思ひをなし、みな\/太平をことほぎける、


「浮世の有様 巻之六 遠州稗原村村上庄司より来状の写 その3
徳富猪一郎『近世日本国民史 文政天保時代』「五十 平山助次郎の密訴」
「大塩平八郎挙兵の顛末」目次その1その3

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