Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.3.20訂正
2001.1.23

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎 挙 兵 の 顛 末」
その3

『商業資料』大阪経済社 1894.1.10 所収


◇禁転載◇

適宜、読点・改行を入れています。


商業資料 明治二十七年一月十日

大塩平八郎挙兵の顛末(其三)

  市中町々検分の事

扨も西御奉行堀伊賀守ハに(ママ)(えひ)々々と勝鬨あげ、静々凱陣なしたる様、卒勇ましく、御乗馬の其嘶(いなゝき)も冴ゑわたり天つ晴れ凛々しく見へたりける、

此を拝まんと集ひし老若、よろこび勇みて笑ふあり、歓喜に咽ぶものもあり、暫しハドヨめきわたりけり、

斯くて伊賀守にハ、引揚のゝち程もなく、又もや近習供頭御中小姓徒士目附、それ\゛/人数を従へて、火災の口々、橋がゝり、御検分にと出られぬ、

見るから災後の難渋者、あはれを告ぐる羽抜鳥、かへる巣もなき児童(わらはべ)の救済(すくひ)を求むる便(たより)なさ、不憫といふもおろかなり、御奉行、これを慰さめ労り、尚ほ町々を見廻りしに、道路に捨てありし兵具を収め、一ト先づ役所へ搬バせたるそのしなじなハ、左のとほり、


  諸大名固めの事

さて又、当日諸方より、大坂変火のよしを聞き、馳せ参じたる大小名、御城かための有様ハ、前にも大方ハ記せしかど、人数の多少、固めの場所など世に伝はらざるもの多けれバ、今左に録して知らしめぬ、


追手口内御固
   御城代
  八万石
   土井大炊頭
        与力五十騎
          同心百人

  
追手口御門外
 御城代御家来 十騎 御同勢二百人



   大御番頭
   但御拝領金采幣
    葵御紋付有之
  七十(七千)
   菅沼織部正
        与力 十騎
          同心 三十人
  同組頭六百石以下
  御同人支配
  笠原権太夫
  曲淵宗太郎
  大岡兵五郎
  難波田八右衛門
  大御番衆
    但六百石以下ハ廿五騎
    四組を以て一隊とす
  菅沼組五十頭


   大御番頭
   但御拝領金采幣
    葵御紋付有之
  一万石
   北条遠江守
        与力 十騎
          同心 三十人
  同組頭六百石以下
  御同人支配
  浅香伝四郎
  内藤主膳
  入戸野九左衛門
  野中三十郎
  大御番衆
     但六百石以下
      俗に百騎衆と申
  五十頭


玉造口内御固
   御定番   
  一万口(石)
   遠藤但馬守
        与力 三十騎
          同心 百人

御城外京橋口
   壹御加番
  四万石
   土井能登守

御城内青屋口御固
   二御加番
  二万石
   井伊右京亮

御城内雁木坂口御固
   三御加番
  一万千石
   米津伊勢守

同雁木坂御固
   四御加番
  一万石
   小笠原信濃守

 
  東町奉行
    但馬乗にて抜
    身の鎗を携ふ
  二千五百石
   跡部山城守
          与力三十騎
          同心五十人
 
  西町奉行
    但馬乗にて
    鎗抜身の儘
  二千五百石
   堀伊賀守
          与力三十騎
          同心五十人

本町橋御固
  御船手奉行  
    但馬乗にて
    鎗抜身の儘
  三千二百石
   本多大膳
          与力六騎
          水夫五十人

  御破損材木奉行   森 左十郎
  鈴木栄輔
  神原太郎左衛門
  御鉄炮奉行  石渡彦太夫
  御手洗伊右衛門
  御弓奉行  鈴木治左衛門
  上田五兵衛
  御具足奉行  祖谷孫助
  御蔵奉行  嶋田三郎右衛門
  比留間兵三郎
  御金奉行  幸田金一郎
  御代官  根元善左衛門
  池田岩之烝

  大御目附 二千六百十四石
     中川米(半)左衛門
七百石
     犬塚太郎右衛門
その外、尼ケ崎の城主松平遠江守殿(四万石)よりハ、番頭七騎同勢凡そ百五十余騎ハ翌廿日四ツ時駈けつけ、高麗橋を固めらる、

堺町奉行曲淵甲斐守殿(二千石)よりハ、与力十騎同心五十人同勢凡そ二百余騎、同日暮合に到着して農人橋を固めらる、

続へて、泉州岸和田の城主岡部内膳正殿(五万三千石)より、番頭十騎同勢二百騎バかり、、廿一日早天着、平野橋を固む、

又同日早天に駈付しハ、和洲郡山の城主松平甲斐守殿(十五万石)より、番頭廿五騎同勢三百余騎、

丹洲亀山城主松平紀伊守殿(五万石)より番頭七騎同勢二百騎あまり、

同じく廿二日、西宮迄到着ありしハ、播州姫路の城主酒井雅楽頭殿、御手勢一番手として番頭十騎同勢六百余騎、同じく二番手として番頭十二騎同勢七百余騎、その外大坂出張の人数二千五百人余馬百五十疋長持五十棹バかりなり、

かくて又廿五日に至り、郡山にて勢揃をなし、山崎表を固めたる同勢凡そ千五百、武具、大目附、籏奉行、中目付鉄砲、長柄奉行、番頭を始めとして家老、騎馬、書役、医師、使番より籏持、賄方、作事方、宿割、纏持にいたるまで姓名扶持高等詳しくあれども今ハ其 繁を省きて略したり

  津々浦々へ觸書の事

去る程に、両町奉行には、事平定のゝち、一味徒党の巨魁なる大塩父子を始め、其他の面々、行衛知れざるもの多かりけれバ、万一船路より逃去りしも斗られずと、津々浦々小前の者へ出されし御触書、左の如し


大塩の乱勃発当時の大坂城内外の警備状況
「浮世の有様 巻之六 大塩の乱」その6その7その8
徳富猪一郎『近世日本国民史 文政天保時代』「五八 官辺の行動」
「大塩平八郎挙兵の顛末」目次その2その4

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