『商業資料』大阪経済社 1894.7.10 所収
適宜、読点・改行を入れています。
跡部山城守 堀 伊賀守当二月十九日放火乱妨におよび候奸賊共、追々召 捕又は自滅仕候中、其張本人大塩平八郎同格之助行衛不知候処、当所油掛町美好屋五郎兵衛方に忍び居候哉之趣、伊賀守組与力内山彦次郎承り込み、密々探り居候、大炊頭方にても右同様承り込み、不容易儀暫時も手延難仕、去月廿七日暁不取敢油掛町へ向け、家来別紙名前之者共差向け、其段私共へ案内有之候処、内山彦次郎別紙名前の同心共召連れさせ、場所にて心申合せ手配仕候、奥深き場所にて前後厳重に締り有之、容易に難踏込、依之右戸締り打破り召捕可申と踏込候処、兼て火薬用意も有之、忽致放火火中にて自殺仕掛け候処、見請け候得共、何分火気強く焼候に付、直に右両人の死骸引出し候処に御座候、一体彦次郎儀は常に格別粉骨出精仕、御用弁宜しき故、臨時取計も行届候儀に御座候、依之一廉之御賞詞之上、御褒美被下度候様仕度、且同心共之儀、平常召捕方行届候者共相撰み差向け候処、格別骨折候に付、是亦相応之御褒美被下置候様仕度奉願上候、
右召捕申合候大炊頭家来火急之処、格別之出精相働き、組の者共一同力を添へ踏込み捕懸り候儀に御座候間、格別之御褒美御座候様仕度、右平八郎父子行衛相知候に付、市中其 外迄も危ぶみなく取引万端平生に相復し候人気に罷成申候、
依之前書申上候通、一同規模相立べき出格之御沙汰御座候様仕度奉願上候、
則別紙名前書相添へ此段申上候以上
則捕方役人左之通
当時御城代 下総国古河城主 土井大炊頭樣 右 家来 御目附 藤田 *1 御惣頭代 岡野小右衛門 平士七人 菊地銕平 安達続太郎 菊地弥六 斎藤庄五郎 芦沢啓次郎 松高綻蔵 遠山勇之助 小役十三人 岡村啓蔵 鳥巣亥四郎 小林多市 武井甚蔵 茂呂周平 生井友八 松宮野右衛門 福井喜三次 藤田彦蔵 高田善太郎 村尾勇蔵 井上武蔵 梶 弥七 清水谷八役之内五人 堀伊賀守組与力 内山彦次郎 同組同心 関 弥次右衛門 同組同心 佐川豊右衛門
さて右逮捕の際、彦次郎を嚮導として、其の他の捕吏一同美好屋が宅を取囲み、又東西奉行も出馬ありて、其の手当頗るおごそかなりしが、同日朝五時焔硝の烟立のぼり、爆発の声すさまじく響くと共に、其の家屋たちまち燃上り、近隣の者ども、復もや鉄砲の乱発するにやとて右往左往に騒動し、消防人夫も次第に駈集りは集りたるもさらぬだに、其の前月十九日の乱妨に懲り恐れたる人夫のことゝて、たゞ呆然たるのみ敢て進みかねけるを、内山彦次郎、大音に下知を伝へつゝ之を励しければ、流石に耻しくや思ひけん、一同心を合せて消防に力を尽す其の間に、大塩父子は自殺を遂げたり、
此の時猛火炎々たる中なれば、その死骸も灰燼に帰すべかりしを、やうやうに引出しけるとなん、
其より隣家なる医師本田が家の乗物を借来り、此に大塩父子の死骸を取乗せ、信濃町会所へ舁ぎ込ませつ、両奉行其の他の役人立会い、死骸の検死をも了りければ、頓(やが)て高原へぞ差遣しける其の道筋は、油掛町より信濃橋を渡り、本町より心斎橋筋を南へ、大宝寺町筋を東へ折れて高原へ到りけるが、路傍は見物人の山を為したり、
此の時大塩父子が死骸を乗せたる乗物の後に、引添ひて舁ぎ行く一挺の輿ありけるが、左右の「たれ」を捲上げて中には六十才許の男を乗せたり、是ぞ則美好屋五郎兵衛とは知られぬ、手腕や足のあたりまで、粗縄もてひしひしと縛し、身動きもならざるにぞ、悄然として首を垂れ、生きたる気色とてはなかりけり、
抑も此の五郎兵衛と云へるは更紗商人にして、靱辺に住居しいと豊富に生活したる者なりしが、是の時悪党に加担して、具足、旗、幟其の他の品々数反引受け調進したるの故を以て、斯く咎を蒙り終に責付(あずけ)の身となりしなり