島本仲道編 今橋巌 1887刊 より
其然るを以て則ち、一日書賈河内屋喜兵衛等数人を呼で、之に言て曰く、
吾の文学を好で書を償ふに、曾て其費を惜まざりし事は、諸氏の知る所の如くにして、常に飲食を菲うし、衣服を悪うして購書の資に供するに至りたり、是以て文庫に蔵する所の書は、啻に五車のみならずして、亦稀世の書も少しとせざるなり、然れ共擁書の楽は民の凍餓に代ゆ可らざるを以て、今や吾は一切の蔵書を鬻で、施与の資と為んと欲するの決心なり、子等適当の価額を定め、之を購ふベし、
と、喜兵衛等皆平八郎の門下に出るを以て切に之を止むと雖も聞れず、因て相議して之を市に鬻で、金六百五十両を得たり、乃ち之を平八郎に納れ、且つ之に言て曰く、
先生若し之を頒て窮民に施与せんとせば、弟子等願くは其事に周旋して、先生の志を成んとす、
と、平八郎大に喜で之を托したるを以て、喜兵衛等は即ち一紙を彫り、其事を記して人を市街及び近郷の各村に馳せ、普く窮民を探りて其証を領布せしめたり、蓋し限るに一万人を以てす、其証は左の如し、
口上
近年打続米穀高直に付、困窮之人多く有之由にて、当時御隠退大塩平八郎先生、御一分を以御所持之書籍類不残御売払被成、其代金を以困窮乃家一軒前に付金一朱づゝ無急度都合家数一万軒へ御施行有之候間、此書附御持参にて左の名前の所へ早々御申請に御越し可被成候
但し酉二月八日安堂寺町御堂筋南へ入東側
本会へ七ツ時迄に御越可被成候
河内屋 喜兵衛
同 新次郎
同 記一兵衛
同 茂兵衛
期に及ベば其証を受る者陸続来て、施行所の門前に雲簇し、未だ午時に至らざるに全く之を施与し尽したり、是日や饑民は恰も撤鮒の水を得て生るが如き思ありて、歓呼の声、洋々として市街に盈てり、
之よりして平八郎の名声、益府下に高く、其施与を受けたる者と受けざる者とに論なく、皆其徳を尊崇して神の如く之を崇祀して、後世に伝ヘんと称するに至れり、然るに跡部山城守は之を聞て嫉悪の情に堪えず、乃ち格之助を奉行所に召喚し、私名を売らんとして猥に施与を窮民になしたる者と為して、上司を蔑するの罪軽からさる旨を達して譴責を加ヘたり、
嗚呼施与の濫に失する者は、窮民を増加するの弊ある事は、学理の常に之を戒むる所なりと雖も、今平八郎が施与の挙は、将た濫に失したる者と為んか、将た当然を得たる者と為んか、識者を待たずして之を知る所あるベし、然るを且つ平八郎が其譴責を免れざるに至ては、何の理に出る者ぞ、吾れ実に仁を行ひ、徳を施して人の譴責を受る者は古来其類ある事を知らざるなり、