島本仲道編 今橋巌 1887刊 より
思ふに、此一篇は、平八郎が満腔の熱血を此に注入したりとも謂ふベき者にして、時弊の横抂なるを憤慨するの情、淋漓紙上に溢れたり、後世をして慷慨激烈の士、平八郎其人の風采気象、凛然人を襲ふの状を想見せしむる者は、実に此檄文ならずんばあらず、
読者豈に軽々読過すベけんや、
初め平八郎は、庄司義左衛門の議を用ひて、密に其党を募りたるが、既にして相組与力瀬田済之助、小泉淵次郎等を始め、連署の衆二十余人を得たるを以て、更に其党与を近郷村の間に求め、其勢力を張大にせん事を欲し、窃に腹心の者を四方に出して其人を募らしむ、
猪飼野、下辻、般若寺、守口、吹田等の諸村に於て、相応ずる者殊に多く、皆平八郎の家に来往して、日夜文武の学を講習するに托して、事を挙るの練習を為せり、
然れとも、平八郎は、文武の学に長ずるを以て門生極て多く、殊に平生厳明方正にして、徒に授るに、悪を去り善に就くベきの理を以てして、切に不正不義の心を戒め、誠を師弟の間に推して訓導せし為め、一たび弟子となる者は、皆其徳に感じ、景慕せざる者はあらざる程にて、四方の望、亦甚ダ厚かりしを以て、在塾の者常に百人を超ゆ、朝夕出入の門生は二百人を欠かず、文武の弟子千人に垂んとして、其塾舎の如きは故塾中塾新塾の三つに分ちて、閑恢尤濶なる事、小諸侯の黌舎は企及ふベからざるの極盛ありしに依り、今や多数の人を集めて、専ら事の準備を講ずるも、敢て之を怪しむ者なかりしなり、
因て平八郎は之より只発出すベきの良機会をのみ之れ待たるに、恰も好し、是歳二月、大坂西町奉行新に交代して、堀伊賀守之に任じ、旧例に依て相役東町奉行跡部山城守と同道、各組屋敷を巡見すベくして、乃ち是(コノ)十九日を以て、天満の組屋敷に至り、与力朝岡助之丞の宅に休憩すベきを告示せられたり、
於是平八郎は朝岡の宅たるや、己が対門の地に在るを以て、之を千載の一遇となし、此機会を失はず、不意に両町奉行を襲殺し、狼煙を挙て之を四方に報告し、勢に乗じ驀進して、一方には奸官汚吏の輩を斬戮し、一方には悉く市中の驕商等の家を燔き、倉庫を破壊して、貧民の檄を得て相集る者に分与し、然後、一に合して甲山に上り、以て其後図を議すベきなりと、同盟の衆を会して其意を示したり、
是れ正に十七日の夜に属す、