島本仲道編 今橋巌 1887刊 より
然るに、惜むらくは、丁酉の一挙其適しきを得ざりしが為め、真正なる事実は空く蔽れて、発する事を得ず、却て之が為め、動もすれば、平八郎の心事を非斥し、其躬行をさヘ汚辱する者ありて、終に其人を奸盗の徒に帰せしめ、今日の諸吏に至るまで、猶ほ其冤を伸る者なく、旧記に依て之を実にせんとする者あるは、豈に其人の為め之を遺憾と謂はざる可んや、
忠あつて蔽はれ、義あつて聞えざるは、天下志士の常厄とする所なれとも、永く後世に至るまで、所志の湮没して聞ゆる事なきが如きは、誰か之を惜まざる者あらんや、宜く之を発揚するは、務め後人に在りと謂ふべし、
是以て、吾曹は、旧記遺牘の尚存する者を取り、傍らに又故老の言を聞て、聊か平八郎が心行事実を略叙せんと欲するなり、
盖し、天保七年丙申の春より夏に亙て、霖雨久しきを経て晴れず、河沼氾濫して、卑地水に没し、途上舟楫を仮る者多きの惨状を呈したるを以て、四方の田多くは実らず、之に加るに秋晩暴風烈雨の殃を重ねたるが為め、天下漸く饑饉に陥り、既に其年十一月の初に及べば、一石の米は、銀二百目にあらざれば買ふ可らざるまでに騰貴し、到処将に饑寒に迫らんとする声あるに至りたりき、
抑も外国の交際なく、内地の往来も猶且つ充分の便を得ざりし当時に在ては、一たび飢饉の厄を受るときは、都会の地たるや、穀は其地に産せずして、一に之を地方の輸入に仰ぎ、之を消費するの人は、反て夥多なる事なれば、首として非常の困難を蒙るべきは、数の免れざる所なるを以て、路に当る者は殊に意を用る所あるべきは当然の事なるに依り、江戸に於ては、幕府より令を下して、屡倉廩を開き、以て饑民を賑し、又慈善心あるの人は、専ら力を救恤に尽して、施米与銭の挙に及びたるを以て、幾分の饑寒を支ヘたりと雖も、其れすら尚ほ之を施す者限りあり、之を用る者限りなき事なれば、久しきを保つべからず、漸くにして饑餓の域に沈淪する事となりたり、
然るを、况や大坂の如きは、最初より有司の嘗て意を此に用ひたる者だにもなく、又市井の間に於ても慈善の事を企る者寥々たる事晨星よりも甚しき者あるに依り、窮民の饑渇は、江戸に比して更に
一層の重きを加ヘ、其十二月に及ぶ、比ほひは、将に餓路に載するの惨状を見るも遠からざらんとするに至りたり、