島本仲道編 今橋巌 1887刊 より
思ふに、当時の刑賞甚だ宜しきを得て、刑は苛に失せず、賞は濫に陥らず、能く其当を尽せり、
如此にして、始て以て正大にして私なきの政と称する事を得べきなり、
司法官の職、然らざる可らずと雖とも、評定所の衆、亦人を得る事非れば、悪に能く此に至らんや、
初め此獄の起るや、之を慶安の獄に比して、三族を死刑にして天下に示さんと議する者ありしが、評定所の衆は、其判決書を呈するに臨み、附言して曰く、
慶安の年、由井正雪、乱を搆へて誅に伏す、今大塩平八郎の獄を以て之に比する者あるは、大に可なり、然れ共、其刑の如きは、慶安の獄に比して三族を死刑にせんとするに至ては、大に不可なり、夫れ慶安の事蹟に就ては、大府の旧記を百方捜索したれ共、其存する者なきを以て行刑の如何を知るに由なく、唯、僅に民間の杜撰なる書冊に於て、三族を死刑にする事を見るのみならば、則ち之を以て今俄に信を措くに足らず、
縦令当時に於ては、果して正雪の党人が三族を死刑にせられたりとするも、抑も執法の要は、時世人情の二つを察して、之を処分すべき者にして、乃ち慶安の当時に在ては、酷刑を執て人を圧服するの要ありしなるべけれ共、今日の人情に於ては、然らず、人心皆政化に服して、騒乱を醸すの気象なければ、是際、務て寛典宥刑を施して、愈人心を満たしむるを専要とすべし、
故に、本案を決するには、凡そ暴挙に与する者の外は、父子
兄弟と雖とも死刑に処する事なく、且つ附和随従の輩に於ては、極て軽典に行ふの意見を取れりと上申したりしが、即ち其判決案の如く許可せられて、之を執行するに至れり、
此論の正確なる、平八郎にして知るある、瞑せざる可んや、