Я[大塩の乱 資料館]Я
2004.1.20

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大塩の乱関係論文集目次


『青 天 霹 靂 史』

その56

島本仲道編

今橋巌 1887刊 より

◇禁転載◇

天保三年壬辰の夏六月、藤樹の我国学の開祖たるを慕ひ、琵琶湖に泛て其遺跡を訪ふ、

藤樹は西近江比良嶽の北なる小川村の産なり、初め伊予の加藤侯に事ふ、孝志あり、職を棄てゝ母の病に走り、具に侍奉を尽す、母歿して後、復た仕へず、其常に榻を藤樹の下に置て学を講ずるを以て、藤樹と称せり、

諄々然と能く人を化す、故に人皆之を近江聖人と称して其名を言はず、今に至るまで郷人其徳を慕て、月次に祭饗し、詣者相踵けり、

平八郎は此に至りて藤樹の門生某の苗孫志村周二と云ふ者に就き、其旧書院に上り、神主を拝し、書画及び旧衣裳の尚存する者を展観するを得たり、詩あり、曰く、

帰る時、道を大溝の港に取りて、舟をて坂本村に抵らんとす、水程凡そ八里なり、舟、中流に至る、比等ひ北風俄に起る、湖を囲む四山、声を飛し、狂瀾重畳として一葉箭の如く走る、鰐津の険に至れば、天開地裂の勢ありて、進退自在を得ず、左右傾昂して舞ふが如く、踊るが如くにして、舟んと覆らんとす、

舟子乃て魚腹に飽かしむるを期とせり、時に平八郎は往昔程伊川の暗州に之くや、江の中流に当り舩んと覆らんとして安坐正襟平日の如くにして、以て誠敬を存すと為せし事を思ひ、平生の学ぶ所は、此に在り、是れ宜く良知を致すべき所なりと称して、心を大界の外に放て、事物の為に揺撼せられざる事を勤め、一に虚霊不昧の徳を修して、身を天地と比するに至りしかば、則ち憂悔危懼の念、立どころに消して凝然動かず、既にして嵐止み、岸に達せり、と云ふ事の如き、

亦以て躬行の学を講じて自ら責るの厚き事を見るべきなり、

著書は洗心洞箚記、孝経彙註の外、儒門空虚聚語あり、世に 行はる大学刮目は、山陽甞て之を読で、一家の私言にあらず、天下の公論なり、と称せし所の書なるが、刻成て会ま丁酉の 挙あり、終に其板を焚燬散脱に帰せしめたり、惜むべし、


『青天霹靂史』目次/その55/その57

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