Я[大塩の乱 資料館]Я
2004.1.27

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大塩の乱関係論文集目次


『青 天 霹 靂 史』

その57

島本仲道編

今橋巌 1887刊 より

◇禁転載◇

平八郎、既に学博く名高うして、四方其交を訂する者、日に多し、皆其学徳を推て崇尚するの深かりし事は、洗心洞箚記の附巻を繙て、之を読むも其一端を知るべし、

然るに平八郎世儒の徳行なくして風をり、俗を傷ふ事を恚り、談此に及ぶ毎に、輙ち罵て吾をして憲職に陞らしめば、是儕の首札々て地上に駢ふべきなりと言へりしかば、当時の諸老先生中亦己の素行なきを耻ぢ、畏避して、之と見ざらん事を務る者多かりしが、一旦平八郎の破るゝに及び、始て是れ吾が甞て相言ふを欲せざりし所以なりと曰ふ者も少からざりしは、嗟亦憎むし、

而して平八郎は、山陽と交を訂する事最も深く、他の諸儒と異なる者あり、乃ち山陽にして請ふ所あれば、珍器と雖とも、之を与へ、奇書と雖とも、之を貸し、為し難きの事と雖とも、之を為し、以て其意を満たしめざるなし、

彼の趙子璧、芦雁の図の幅を与へ、胡致堂、読史余論の書を貸し、菅茶山の遺杖を索得て贈りたる事の如きは、其尤なる者にして、事は山陽遺稿の中に散見せるを以て之を贅せず、

山陽常に人に言て曰く、中斎と語る掩るゝ所あるが如し、為政講学一切の事、其言んと欲する所を尽す能はずと、

夫れ山陽の磊落不羈を以てして猶ほ其之を憚る事此の如くなりしを見ても其一籌を輸す所あるを知るべし、其人傑たるや言はずして将に明ならんとす、


『青天霹靂史』目次/その56/その58

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