Я[大塩の乱 資料館]Я
2004.1.13.

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大塩の乱関係論文集目次


『青 天 霹 靂 史』

その55

島本仲道編

今橋巌 1887刊 より

◇禁転載◇

平八郎、幼年学を勉て王陽明の良知を致すの説を見て、大に感得する所あり、其我邦に在ては、中江藤樹の之を剏め、熊沢蕃山の之を継ぎ、三輪執斎の之を学ぶの外、其統を伝る者なきを見て、慨然に堪えず、自ら斯学を講じて一世に弘めん事を志し磨研尋、以て多年を重ね眠食を忘るゝに至る、為して肺疾を患へて死に瀕する者再三なり、而して其志を渝へず、終に其識得する所を記して、洗心洞箚記と名づけ、世に問ふに至れり、

蓋し此書の如きは平八郎が畢竟の精神を用る所の者にして平八郎を知るも箚記にあり、平八郎を罪するも箚記に在りと称すべきの著書たるなり、

故に平八郎は之を上刷するの後、一本を伊勢大神宮の倉庫に納め、一本を携て富獄に上り、其山嶽に埋蔵したりと云ふ、

而して其説く所を見るに、之を太虚に帰して、孝を致し、敬を存するを以て人の要道と為す者の如し、

故に又孝経彙註の著あり、且つ家を祭るに、他人をして祭器の洗滌に従はしめず、必ず皆自ら之を為せり、江躬行の学を講ずる者、固と≠ュ然るべしと雖とも、亦学を信ずるの深きに非れば、安に能く此の如くならんや、

故に支那勾呉の儒銭泳と云ふ者、之が顔を署するに数百言を以てして速く寄贈し、称して聖学の正伝と為すに至れり、


石崎東国『大 塩 平 八 郎 伝』 その55


『青天霹靂史』目次/その54/その56

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