島本仲道編 今橋巌 1887刊 より
天保三年壬申の秋、山陽血を吐て病革なりと聞くや、直に起て京都に上り、其家に至れば、既に逝くに遇ひ、大哭して帰る、
明年洗心洞箚記の刻成るに及び、山陽をして之を見るに及ばしめざるを遺憾となし、其子余一の大坂に過るや、之に其一本を与へて、吾心以て猶ほ山陽に贈ると為すなりと称せり、以て二人の交情を知るべし、
平八郎は嘗て、我を知る者は山陽に若かずと称して、山陽は又、平八郎の尾張に適くを送るの序に於て忌憚を避けず、人の言ひ難き事を言て其人を称するを以ても、尚ほ之を知るに足る者あらんとす、
山陽甞て平八郎に言て曰く、
兄之学問洗心以内求如襄者外求以内儲、
と蓋し、二人の人物を尽したりと謂ふべきなり、