Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.8.13訂正
2002.2.8

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大塩の乱関係論文集目次


『維新革命前夜物語(抄)』
その10

白柳秀湖 (1884-1950)
千倉書房 1934 より

◇禁転載◇


第十三章 天保の大飢饉、都市ブルヂヨア豪華の巻

一二二
 天明の打毀しを天保の施行
  張札にまで進歩させた社会苦

 この全国的の大飢饉につれて江戸の米価も、暴(にわ)かに騰貴して来た。殊に天保七年七月十八日と八月一日との両度に江戸を襲つた大暴風雨は関東の諸川を氾濫させ、さらぬだに騰貴してゐた米価をいよ\/騰させることゝなつた。

 先づ蔵米の値段からいふと、百俵の価百四十五両、これはその頃としては、実に破格の高値である。従つて市中の小売相場も、近年にない高値を呼び、白米の価一両に六斗五升から二斗二升となり、百文に二合八勺の呼声をきくに及んだ。

 やがて不穏の空気は刻々市中にみなぎつて来た。人々は皆天明七年の打ち毀しを想ひ起して、安き心もなかつた。これより先、天保四年には江戸に軽い一種の米騒動が起こつてゐる。それはどんなことであつたかといふと、平素細民からその因業を憎まれてゐた市中の豪家が町々の木戸、橋の欄干など人の目につきやすいところに施行の為、米の廉売をするといふ張札をされた。初めにそれをされたのは、芝の三田で、俗に乞食松屋と呼ばれてゐた俄分限者であつた。張札のおもてには、来る十月一日から、向ふ三日間、百文に付、白米を一升一合五勺に売るとあつた。この張札の町々の木戸、橋の欄干などに張り出されたのは九月二十八九日頃のことであつた。その頃江戸で白米の相場は、一両に四斗三升ぐらいのものであつたから、百文に一升一合五勺といへば破格の廉価(売?)である。それで十月一日の朝になると、江戸中の細民が潮の如く松屋のまはりに押しよせて、早く米を売れ、早く米を渡せと口々にののしり騒いだ。

 松屋は元来、質屋であつて、米屋ではないので、白米廉売の貼札はもとより松屋の関り知らぬことである。番頭が出ていろ\/に弁解するけれども群衆はきゝ入れない。果ては店前に石瓦を投げつけ、馬の破れ草鞋などを抛り込んで狼籍に及ぶので、止むを得ず一人に付、二百文づゝを施して去らせようとしたが、それをきくと細民は刻々に数を増し、果ては数千人に及んで松屋も手の下しやうがなく施しを打切つた。すると群衆はいよ\/いきり立つて乱暴を働くので、遂に町役人が出て追散らさうとしたけれども、何分にも、大多数のことゝて、夜に入つて群衆が自然に退散するまでは、どうすることも出来なかつた。

 この騒動をきいた市中の富豪連は身ぶるひして恐れ、天明七年の騒動をくりかへさぬ中にといふので、それ\゛/町内の裏長屋、自分持の長屋へ、あるいは戸別に、あるいは人別に施行をした。施行は米でするものがあり、金でするものがあり、或は家賃をまけてやるといふものもあつた。この時の施行の中では、鹿島清兵衛の出し振りが一番鮮かであつたとある。

 しかるにこの際、富豪連の中には、自分持ちの長屋中へだけ施行をして、町内の細民へは施行をせぬものがあり、いたく一般の恨みを買つたが十一、二月頃になると、三田の松屋と同じ張札をされて大騒動に及んだとある。

 天明大飢饉の時には、三都の富豪で施行をしたものは殆ど一人もいなかつた。しかるに天保四年から、天保八年にかけての大飢饉では、江戸を始めとして、三都の富豪が率先して貧民に施行をしてゐる。これは天明七年の打毀しで、彼等のうけた精神的、物質的の創痍があまりに、きびしかつたことにもよること、もちろんであるが、それよりも、社会一般が飢饉を天災とのみ見ぬやうになつて来た。大飢饉は大富豪をつくる。一般の眼が期せずして都市ブルヂヨアにあつまることになつた。

 しかも天保五年度に於ける白米小売相場の最高記録は百文に付四合(五月七日から)であつたのに、天保七年にはそれが、百文に付二合八勺まで騰貴した。これはまさしく前代未聞といつてよい。騒動の起るのは必至のいきほひとなつて来た。


『維新革命前夜物語(抄)』目次/その9/その11

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