Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.8.13訂正
2002.2.15

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大塩の乱関係論文集目次


『維新革命前夜物語(抄)』
その11

白柳秀湖 (1884-1950)
千倉書房 1934 より

◇禁転載◇


第十三章 天保の大飢饉、都市ブルヂヨア豪華の巻

一二三
 大飢饉で暴富を贏(か)ち得た
  銭屋五兵衛と甲州の百姓一揆

 天保の大飢饉が産んだ大富豪は、江戸にも、大阪にも、京都にも、全国到るところの商業都市にその数が、甚だ少なくなかつた。しかし、三都は流石に人目の関がきびしく、巧みに韜晦(たふくわい)して、その福運を隠蔽するのでなければ、不慮の災禍の身辺に及ぶのを避けることが出来なかつた。

 都会にくらべると、地方は流石に人目の関が緩やかであつた。天保の大飢饉に際し、藩の建造にかゝる巨船を利用して米穀の輸送を事とし、めちやくちやに儲け出したものは、加賀国宮腰浦(現今の金石町)の銭屋五兵衛であつた。若し天保の大飢饉がなかつたならば、加貫国宮腰あたりにあんなに大きい船商は出来なかつた。五兵衛は後に海運業者として、有らゆる貨物の輸送取引に従事し、いや肥りに肥つて行つたけれども、彼を初めに儲けさせてくれたものは、間ちがひもなく天保の大飢饉であつた。天保の大飢饉に際し、加賀藩の御用を引うけて、その建造にかゝる巨船の運転に従事するまでの彼は加賀国の片田舎なる寂しい港町の小さい質屋兼、銭両替であつた。それが天保大飢饉の進行と共にどうして一躍日本一の大富豪となり得たか。又、彼の一攫して贏(か)ち得た財富がどんなに夥だしいものであつたか。又、彼の生活がどんなに豪勢なものであつたかは、こゝに述べるまでもない。詳しいことが、同じ著者の『日本経済革命史』及び『世界経済闘争史』の中に記述されて居るから、志ある諸君には、是非それを読んで戴きたい。

 若し、国民の経済思想が今日の如く発達し、通信及び報道機関が今日のごとく整頓して居る時代であつたならば、加賀国宮腰浦に於ける、銭屋五兵衛の暴富は、必ずや一代の物議を沸騰させ、社会の大問題となつてゐたに相違ない。しかるに、幸ひにして銭屋は、さうした社会の批評眼からのがれて、只肥(ふと)りに肥つてゆくことが出来た。今日でさへお目出たい歴史家や、大衆作家達は、五兵衛の暴富と天保の大飢饉とを別々に考へてゐる。

 天保七年八月には、甲斐国都留郡に由々しい百姓一揆が起つた。ここは代官西村貞太郎の支配地で、事は下和田村の百姓、武七といふものゝ発頭から起つた。当時武七は六十歳ばかりの老人で、すでに森右衛門と改名して居たが、自ら一揆の張本なつて、赤い陣羽織の如きものを著なし、赤白の旗に『森』の一字を大書したもの二三十本を押立て、徒党の者は手に\/斧、鋸、鳶ロ、竹槍等を携え、その他の武器、兵糧等を四、五匹の馬に負はせて、十七日の暁から同郡谷村へ押出し、行く行くいきほひを加へて、総勢幾万といふ数を知らず、八九里の間、蜿蜒(えん\/)長蛇の陣をなし、途々(みち\/)乱暴狼籍を働きながら、二十三日巳の刻といふに甲府町に到着した。この間、谷村では同村の豪家を五軒まで打毀し、鶴瀬の吉野屋、勝沼の鍵屋、寄田の巴屋にせまつて兵糧の焚き出しをさせ、鶴瀬の関を破つて熊野堂村に押出し、こゝで奥右衛門の家蔵、十二戸を打毀し、その勢ひに乗じて、つなみのやうに甲府町に押寄せたのであつた。

 一揆が甲府に乱入した時には、その数一万八九千人といはれて居た。緑町なる竹原屋といふ質屋を始めとして、呉服、太物、米殻商の家々十五六戸を打毀して掠奪をほしいまゝにし、中には火を放つて焼き払つたものさへあつた。

 しかもその火が自洲に燃え移つて、官衙三十戸にも延焼したので、官に於いても今は黙止し難く、城内から一揆の群がる其只中に一斉射撃を浴びせかけた。一揆は三百人ばかりの死傷者を遺棄して閧(とき)の声を揚げ、巨摩郡の方に退散を始めた。


猪俣為治「大塩平八郎」その42


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