Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.8.13訂正
2002.2.5

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


『維新革命前夜物語(抄)』
その9

白柳秀湖 (1884-1950)

千倉書房 1934 より

◇禁転載◇


第十三章 天保の大飢饉、都市ブルヂヨア豪華の巻

一二一
 水戸街道を江戸に向つて
  流込んだ東北流民の惨状

 天保の大飢饉で東北の災害がどんなに激しかつたかは、今に美譚として語り伝へられて居る両高梨家の慈善によつても、略(ほゞ)そのさまを察することが出来る。前回に述べたやうに、東北の村々から飢の為に追立てられた窮民は、途々百人二百人と人数を増し、絡繹(らくえき)として江戸の方に流れ込んで来たものらしく、東北と江戸をつなぐ諸街道の騒ぎは大変なものであつたらしい。その頃今の茨城県常陸国真壁部養蠶(こかひ)村茂田(しげた)といふところに、高梨助右衛門と呼ぶ豪農があつた。この助右衛門の家は、水戸街道に沿うて、六十五棟の土蔵を建てつらね、ーカ年の醤油醸造高数万石、蔵人夫だけでも百二十人を使つて居たほどの豪勢振りであつたが、平生憐みの心深く、天保七年から同八年にかけての大飢饉で、水戸街道にも東北の飢民が、日に\/群をなして流れて来る悲惨のありさまを見ては、黙つて何もせずに居ることが出来ず、救小屋を設けて日に三度づゝ粥を施行することとした。ところがその後追々に流民の数を増して、多い時は、一日六七千人にも及んだことがあつた。かやうに夥(おびただ)しい流民の中には病人も少なくなかつたので、助右衛門はその救小屋に医師三人を抱へて置いて、薬を施し、病んで死ぬものがあれば、僧を請じて、懇(ねんごろ)に跡弔いをし、死骸は自分の畑の中に埋めてやつた。僧には一人に付二朱二百文の布施を出して粗略のないやうにしたが、埋葬者の数は凡そ三千人にも上つたとのことである。

 又、その救小屋に収容されて居るものゝ中で、元気を回復し、志すところに向つて旅立たうとするものがあれば、助右衛門は旅費として、一人に付必ず二百文を施し与えた。かくて天保七年十月から同八年九月に及び、六七万人の流民を救つたために、助右衛門の費したところも少なくなかつた。孫の某なるものが、その家道の衰へとなることを憂えていつた。

『おぢいさん!かうして毎日毎日集まつて来る人達には限りがないのに、家の身代には限りがあります。慈悲のお心は、申し上げやうもない結構なことに存じますが、今のやうでは行く先が案じられます。』

 すると、助右衛門はこれに答へて平然としていつた。

『いや、何も心配することはない、財産のあるほどは施して、財産がなくなれば止める。施して手許は無一文になつてしまつても、家と田畑だけは残る筈だ。それが残れば、お前達の暮してゆけぬことはない。』

 また、野田の醤油屋に助右衛門と同姓で権兵衛と呼ぶものがあつた。これは江戸で使用する醤油の過半は、その手で造り出すといはれて居るほどの豪家であつたが、茂田村なる助右衛門に劣らぬ慈悲の心の深い人で、東北から流れて来る飢民を救ふことにつとめ、救小屋を作り、粥を煮て食はせた。百姓は床の上にいこはせ、乞食は床の下に置いて懇(ねんごろ)にいたはつた。編板(あんこ)送りにして来る病人でも、寺判さへあれば、直(すぐ)に収容して小屋に留め置き、抱へて置いた医者の手にかけて手当を施した上、薬を与えた。そのために費したところ、金に積つて凡そ二万両に及ぶべしとのことであつた。

 権兵衛は前の飢饉にも同じやうにして流民を救ふうことが夥しかつたので、政府から帯刀を許され、八人扶持を給せられたて居たが、このたびの計らひ方、神妙の至りなりとて、更に代官格に進められた。

 天保の大飢饉における両高梨家の善行の感ずきこともさりながら、両家の手によつて救はれた流民の数の夥(おびただ)しきを見て、東北の惨状がどんなに甚だしいものであつたかを推察することが出来る。


猪俣為治「大塩平八郎」その42


『維新革命前夜物語(抄)』目次/その8/その10

大塩の乱関係論文集目次

玄関へ