Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.8.13訂正
2002.1.15

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大塩の乱関係論文集目次


『維新革命前夜物語(抄)』
その3

白柳秀湖 (1884-1950)

千倉書房 1934 より

◇禁転載◇


第十二章 水野忠成インフレーションの巻

一一五
 水野忠成は発狂人となつて
  ボンブの桿を上下した

 文政三年には遂に通用銀も改鋳されるに至つた。前に元文度の文字金(ぶんじきん)と区別し易からしめ んがために、真書で認めた文字をこんどは草書で認めた。世間でこれを『草文字銀』又は『新文字銀』と称えた。又、この時から元文度の文字金を『古文字金』と呼ぶやうになつた『草文字銀』は江戸に於いては七月二十日、大阪に於いては八月十八日を以て発行された。また同年十二月に至ると、一時中止した真鍮の四文銭を吹継ぎ発行することとなつた。しかもこれらの新金銀には、すべて引替に増歩(ましぶ)がなく、幕府の利するところが大きかつた。従つて人民は新金銀をきらつて引替に応ぜず、為にその流通が円滑を欠いた。

 文政七年に至ると、また二朱銀の改鋳が行はれた。幕府はこの改鋳に際しても、子供だましのやうな理由を掲げて、その出目を貪る卑劣の手段を誤魔化さうとした。幕府が改鋳の趣旨として世に公表したところによると、二朱判金は目方が重く、平素持運びに不便であるとの苦情がたえぬことをきく。近いところの使用でさへそれであるとすれば、遠国との取引にどれだけ不便であるかは察するに難(かた)からぬ次第である。故に政府に於いては、このたび二朱判金の使用に便せんが為に目方一枚に付、七分づゝを減少し、吹直すとのことであつた。

 さうしてこの七分減りの二朱判金は、同年三月二十一日を以て江戸に於いて発行された。大阪はそれから一ケ月の後に発行された。世にこれを『新二朱銀』と呼んだ。すなわち、明和の二朱銀はその重量が二匁七分五厘であつたものを『新二朱銀』は二匁五厘とした。

 これより先、幕府に元文度に於ける古金銀の通用を停止(ちやうじ)する腹のあつたことは、初め文政 度の二朱銀に真書の『文』の字を認めて、元文度の『文』の字と区別し易くして居たのを、文政十一年に至り、草書に書きかへて元文度の『文』の字と区別のしにくいやうにしたことでよく分つて居る。果せるかな文政七年四月には、翌八年二月を以て古金銀の通用を停止すべき旨の布告が発せられた。

 文政七年五月には、さらに一朱金の鋳造が行はれ七月二十二日江戸に於いて発行せられた。この一朱金の品位は、いふまでもなく前の『文政金』よりも劣つて居た。一枚の重さ三分七厘五毛中、正金僅かに四厘五毛余というのは実に前代未聞の劣悪金であつた。越えて文政十一年十一月に至ると、政府はさらに二分判金を吹継発行した。この時前に真書で認めた『文』の字を草書にかへた。これを世に『草字二分判』と呼んだ。その量目を減少し、品位 を劣悪にしたことはいふまでもない。

 文政十二年に入ると、幕府はもう自暴自棄といふ形であつた。政策も何もない。財政の急を告ぐるに従つて、手あたり次第に通貨を改鋳し、その品質を劣悪にしては、出目を貪ることにより一時を凌いだ。同年七月に入つて鋳造発行された一朱銀は、十六枚一両替といふのであつたが、これを『古二朱銀』に比較すると一両(一六枚)に付十匁八分少なく『新二朱銀』に比較すると、四匁八分軽かつた。

 幕府は発狂した。ポンプの桿(え)は発狂人により滅茶苦茶に上下ざれた。遂に破裂の日が来た。


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