Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.1.18

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大塩の乱関係論文集目次


『維新革命前夜物語(抄)』
その4

白柳秀湖 (1884-1950)

千倉書房 1934 より

◇禁転載◇


第十二章 水野忠成インフレーションの巻

一一六
 インフレ景気への眷恋だけで
   引立てられた水野出羽守

 田沼主殿頭を遂つて、松平越中守を迎へて見たが、これは直にいやになつた。こんなことならやつぱり田沼のインフレの方がよかつた。憂しと見し世ぞ今は恋しきで、松平信明の死ぬの待つて水野出羽守忠成を押し立てた。これは三都のブルヂヨアどもが、田沼のインフレに眷恋(けんれん)して、その影を水野出羽守忠成にとらえたわけだ。

 なぜ田沼の影が忠成に宿つてゐたかといふと、これにはわけがある。初め水野出羽守忠友に子なく、その頃、飛ぶ鳥も墜すほどの勢ひであつた田沼意次の第二子、中務少輔忠徳を 養つてその女(むすめ)に配した。しかるに意次が罪を得て遠江相良の城を没収されてしまふと、掌をかへすやうにして田沼にそむき、養子の忠徳を逐ひかへした。

 忠徳を逐ひかへした後は、女の後夫(のちぞひ)も久しく定まらなかつたが、いつまでも継嗣(よつぎ)がなくては三万石にも瑕(きず)がつかうといふので、たうたう、親類の中から養子を迎へることになつた。それが大和守忠成、後に改めて出羽守忠成といつた人である。

 忠成実は岡野肥前守知暁(ともとし)の第二子で、幼名を牛之助といひ、出羽守の末家、水野勝五郎の養子となつて、吉太郎と改めた。初め小納戸であつたが、小姓にすゝみ、叙爵して大和守忠成といつて居たものである。その本家をついで、出羽守と改めたのは、寛政十二年のことであつた。

 享和二年には養父、出羽守忠友が死んで、三万石の主(あるじ)となり、帝鑑間詰に班した。同三年奏者番となり、文化元年寺社奉行を兼ね、十月には更に若年寄に擢(ぬき)んでられた。文化十年四月には世子附の側用人に任ぜられ、同十四年には老中格となつて本丸詰に転じ、文政元年八月、遂に老中に任じ、同四年十一月、采邑(さいいふ)一万石の加増があつて、四万石を領し、権勢赫々、殆ど発狂人に近い平価の切下げを濫施し、それによつて、文政から天保の初年にわたるインフレ景気を煽揚した顛末は、既に詳しく述べて置いた通りである。

 文政八年七月には忠成、将軍家から鐙(あぶみ)、並びに葵御紋章入りの鞍、並びに鞍覆(くらおほひ)を下賜せられ、幕臣としての顕栄を極めた後、天保五年二月九日、歳七十一で、インフレ政治家としては稀(めずら)しい平安な最期を遂げた。まことに幸福な人といふべきだ。

 忠成といふ人は才もなく、識もなく、ただ曾て田沼意次の子、忠徳の配した水野忠友の女に後夫であつたという関係から、田沼時代のインフレ景気にあこがれる一部の勢力から持上げられたまでゝある。

 水野家の家老に土方縫殿助といふものがあつて、忠成を佐(たす)け、専ら機務に参与した。忠成が老中に任ぜられて後、同列の先輩が相次いで歿し、賞罰の権が悉(ことごと)くその掌中に帰するに及び、凡そ忠成に求むるところのあるものは、皆土方を訪うてこれに請託することゝなつた。それで土方の門前は市をなす有様で、時の人がひそかにいつた。公方家は忠成の意に背くここが出来ず、忠成は縫殿助の意に背く事が出来ない。天下の権は今や一水野家の家老の手に帰したと。これより先、水野家がその養嗣忠徳を離縁し、女の後配に窮して居た時、その末家から大和守忠成を迎えることが出来たのは、縫殿助の奔走によるところが大きかつた。

 忠徳は水野家を離縁となつた後、十八年目で再び本家の家督を相続することとなつた。

それはどういうわけかといふと、意次が罪せられた時、その孫意明(おきあきら)が奥州信夫郡で新知一万石を賜はり細々ながら田沼の名跡を保つこととなつたが、この田沼家は不幸にして当主が皆早世し、意明から意定(おきさだ)まで六代を経たが、その間僅かに十八年であつた。そこで水野家を離縁になつた忠徳が、玄蕃頭意正となつてふたたび田沼家を相続した次第であつた。

 ところが文政二年になると、この玄蕃頭意正の上に、急に春がめぐつて来た。


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